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日常の否定:写真の部屋

都内から動かずにいるとHDDに残るのは都内の写真ばかりになり、とないなっとるんじゃ、と思います。しかしそれは当たり前なので違う場所に出かけて行くことになる。この凡庸な行動を考えてみると、やはり料理の喩えを持ち出す流れになります。毎日和食もいいんですが、たまにはイタリアンや中華料理も食べたい。これは決して「日常の否定」ではないのです。

写真を撮る衝動は、何かをじっと見つめることと同じです。街でカッコいいファッションの人を二度見する、変わった建物を見上げる、そういう自分の琴線にふれるものを見つけたそのときにカメラを持っていればシャッターを押す、ただそれだけのことなのだと思っています。見つめるだけだと自分の心の中で終わってしまいますが、写真に残すとその場にはいなかった他の誰かと同じ驚きを共有できるのです。それをわざわざ「作品」や「表現」などとチカラを入れなくて宣言しなくてもよくて、気持ちもフットワークも軽やかな方が長続きします。

以前も書いたことがありますが、あるロシア人の知らない女性から、「私は足が悪くて出かけることがままならないが、あなたの写真を見ていると自分も旅をしているような気持ちになる」とメッセージをもらったことがあります。写真を撮る、どこかにアップする、というのはそんな些細な理由でいいのだと思います。

近所でばかり撮っていると、近所の写真ばかりになる。たとえば東京で撮っていると地平線の写真なんてあり得ません。ガチャガチャした看板や人混みやグレーっぽい建物の写真ばかりになります。

そこでこういった風景がある場所に出かけて行くと、新鮮なのです。目に見えるものすべてに対して二度見が発動します。

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写真の部屋

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人類全員が写真を撮るような時代。「写真を撮ること」「見ること」についての話をします。

多分、俺の方がお金は持っていると思うんだけど、どうしてもと言うならありがたくいただきます。