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贈り物を捨てる罪:Anizine

あるクリスチャンから「あなたはクリスチャンですか」と聞かれたことがある。その人はこのnoteを読んでくれているんだけど、俺がいつも書いていることの基盤が、キリスト教にあるのではないかと思ったそうだ。

子どもの頃に近所の教会に通っていた。難しくて意味はわからなかったけど、そこで聞く話は睡眠学習のように自分の考えの基礎を作っていたんじゃないかといまさら気づいた。外国に行くと特別な意識もなく、必ず教会の扉を開けて、その厳かな雰囲気に浸りたくなることも幼い頃からの習慣なのだろう。

俺は騒音が苦手で、うるさい場所に長くいられない。大声で話す人も苦手なので、基準は教会の中にあるのかもしれない。「静寂」にネガティブな孤独を感じることがないのは、そこに神の存在があるからだと感じることもある。喫茶店で無神経な音量で趣味の悪いBGMを聞かされるのはつらい。コーヒーを飲んでいる時間に、会話が途切れ、無音になることがそれほど怖いんだろうか。

宗教というのは全体主義を想起させやすいけど、実はとても個人的な「自分と神や仏との対話」だと思っている。人間は自分ひとり。だから自分のことを語るのに自分以外の人の名前を出す人が嫌いだ。誰かを紹介してもらうとき「有名な評論家の田中さんに褒められた鈴木さんです」と言われても、俺が田中さんの批評眼を信頼していなかったり、知らなかったりするなら、それで鈴木さんが優れているとは判断できない。知らない人を知らない人の価値観で説明されても困る。

その「その場に人間は自分ひとり」という感覚がキリスト教的だと思われるし、また、最近知人が多くなってきた仏教関係の人とも焦点はそれほどズレていない。キリスト教も仏教も同じなのだ。さらに医師がいる。

人の生と死を身近に扱う仕事をしている人の話は哲学的で興味深い。俺は写真を撮ることは哲学だし、文学だし、宗教だと思っている。だからそこから外れた写真の話は共有できないので、しない。

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これは個人的な感覚だから他者の信じる神を冒涜する意図はないんだけど、自分の基準をこちらに向けないで欲しい、とお互いの平和を維持するために思っている。平和を維持する鷹揚な態度、つまりPKOで生きていきたい。

特にソーシャルメディアでは、自分の振る舞いに応じた人が集まってくる。「攻撃的な言い方はやめてください」と書かれた人の元の文章を読んでみると、その人が先に攻撃的だったりする。つまり自分の周りに集まる人々は自分の鏡だってことです。

自分では気づかない深層心理のような部分を他人に教えてもらうことは多いから、それを素直に受け止めることはとても大事だと思っている。悪いこともいいことも自分の背中に張り付いているから見えない。教えてもらえる人々の言葉に気づかされる日々だ。

才能のことを「Gift」というけど、生まれたときに与えられた才能を捨てる罪、というのがある。自分にできることをまっとうせず、それ以外の俗っぽい価値に踊らされて、神からのGiftを捨ててしまうことは「罪」であるとまでキリスト教は言う。自分の好きなことを仕事にするのは是か非か、という議論を大人が真面目にしていることも、ある意味滑稽であり、そんなことは当たり前だとしか言いようがない。

今、宗教の勢力と互角に渡り合っているのは「お金」だ。

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Anizine

¥500 / 月

写真家・アートディレクター、ワタナベアニのzine。

多分、俺の方がお金は持っていると思うんだけど、どうしてもと言うならありがたくいただきます。