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先行公開 『ロバート2 前書き(仮)』

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前書き

昔のとても嫌な出来事をずっと忘れられない。親の話をSNSに書いたときのことだ。「俺はこう育てられたからこう育った」という個人的な体験を書いたんだけど、それに反論してきた人がいた。その人の切り札はただひとつ。「お前は子どもを育てたこともないくせに適当なことを言うな」だった。プロ野球選手を馬鹿にしたいなら、お前が巨人の4番になってから言え、という理屈だ。

ロバート・ツルッパゲとの対話』の続編を書いている。

連載ではない「本」には締め切りがないから何度でも書き直す。その場で消費される情報と違って、本は自分の名前をぶら下げたまま長く残る。時間に耐え得る強度が必要で、その場で思いついたようなことは書けないからだ。「この文章はその基準をクリアしているか」と自問すると、ダメだと思ってそれまで書いていたものを全部消してしまう。その繰り返し。

来たるべき未来を語るのは、占い師のように無責任だ。誰も答えを知らないから好き勝手に書けるし、読む人も占いを聞くようにしか読んでいない。

今、Aという状況があるからBという行動を取れば、Cという未来が待っている、という論法は一見正しそうに見えて実は根拠がない。この場合、BとCはともに不確定な要素だからだ。Aだけを書くとしたらそれは歴史の本になるだろうけど、それも自分がしたいことではない。

だったら何を書くか。そのとき「お前は子どもを育てたこともないくせに」と言われたことを思いだした。本は自分の子どもでもある。そして自分が子どもの時に大人の振る舞いがどう見えたか、という記憶にだけは絶対の自信がある。俺は子どもを育てた経験はないけど、子どもとして生きてきた実績は間違いなくあるのだ。

「どう育てるのか」ではなく「どう育ちたかったか」という視点なら、俺にも書けるはずだ。それが今生きている子どもや、親や、それとは無関係な大人への「よきヒント」になることが理想だ。

どんなに偉そうなことを言っている人も、赤ちゃんのときは泣いて、ビチビチの緑色のウンコを漏らしていた。高いところに登って滑り降りるだけ、という無意味な遊びを公園で一日中していたはずだ。大人になって憶えることは、こうした方がいい、こういうことは無意味だからしない方がいい、という処世術だけで、自分が何をしたいかということは見事に忘れていく。

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俺はどんな子どもとも仲良くなることができる。子どもは「遊んでくれる大人」と「怒る大人」を一瞬で見抜くからだ。子どもにとって大人はその二種類しかいない。俺は自分がまだ子どもだから彼らと遊びたい。それは自分の子どもなら必要な躾などの責任がなく、その場だけ遊んでいればいいからだろう、という意見もよくわかる。でも問題はそこじゃない。

未来の話だ。

もし子ども(若者でもいい)にやりたいことがあれば、大人だからできる手助けをしたい。絵が好きなら絵の具を渡したいし、服が好きならVOGUEの定期購読でもミシンでもプレゼントしたい。「してあげる」ではなく、俺が「したい」だ。状況がないから可能性が発揮できないというのはとても勿体ないからだ。

自分がお金を稼ぐとか裕福な暮らしがしたいとか思わないのは、そんなものは未来に何ももたらさないからで、50代の俺たちはもう「過去」だ。

大学の授業料がゼロの国があれば、奨学金という莫大な借金を抱えさせる国もある。その文化的な姿勢があらわすのは、未来への希望に真剣であるかどうか。それが自分の子どもであるか他人の子どもであるかなんていうことは何も関係がない。

自然にそう思えるのは、俺の父親が再婚した母親にくっついてきた俺を、アホほど働いて育ててくれた姿をずっと見ていたからだと思う。高校生の時に親父が立派なカメラを買ってくれたおかげで、今も俺は写真を撮って暮らしていけている。

その出来の悪い息子が書いた本が、またどこかの子どもの未来に、ほんの少しであっても役に立つことがあれば、地面の下で死亡中の親父もニヤリとするのではないかと思っている。

      2020年 12月 青山のルノアールにて ワタナベアニ



多分、俺の方がお金は持っていると思うんだけど、どうしてもと言うならありがたくいただきます。