見出し画像

スイカを生み出す宗教:Anizine(無料記事)

私はオカルト的なことに興味がありません。そもそも人間や動物が命を持って生きていることは科学でも解明できないオカルトそのものかもしれませんが、あえて言えばそれは宗教や哲学の領域です。真剣に一生をかけて答えが出るはずもないそれらの学問に立ち向かう人のことは尊敬していますが、まともに学ぶことなく問題の上澄みを軽々しく扱い、それを商売にさえする人々のことは心から軽蔑しています。

命が生まれて消えていく。

人が生きる、とはたったそれだけのことです。最近、雛鳥が親から餌をもらう動画ばかり見ていると何度も書いてきましたが、親が餌を運び、雛は口を大きく開けて待っている姿を見ているだけで涙が出てきます。生きることにこれ以上の出来事は何も起きない、無意味なのだと感じられるからです。親鳥は本能として雛に餌を運びますが、そこに無理矢理「愛」の姿を見つけ出そうとするのは安っぽい動物番組のナレーションだけで間に合っています。

本能は愛情とは切り離された存在だから美しく、理不尽に残酷なのです。雛がヘビなどに食べられてしまって巣の中の子どもの数が減っている様子を見ることもあります。巣に戻った親は何度か首をかしげて眺めていますが、しばらくすると何もなかったように普段通りの活動に戻ります。人間に置き換えるとあまりにも悲しいことですが、それだけを理由に動物の感受性が劣っているとは思えないのです。種を存続させるためにする行動に『意味』はなく、それらの状況に多くの叙情的な飾り付けをしたがるのは人間の自己愛でしかありませんし、意味づけのデコレートをした物語を作りたいという欲求がなせる技です。本能を基準にすれば『退化』だとも思えてきます。

作り出された物語は自分を納得させるためで、決して否定される危険のない愛情という名の鎧に覆われています。もちろんその衝動が文学を始めとした芸術を生み出してきたことは明らかなのですが、代償として本能の正体を見失いました。本能の冷酷な理不尽さから逃げ、解放されることに成功したのかもしれません。それを他者に依存した『救い』と呼びます。

『仮想儀礼』というテレビドラマでは、根拠のない新興宗教を始めた二人の若者がリアルに描かれていました。精神の拠りどころを求めてインチキな宗教を信じるようになっていく弱き人々の愚かさや、彼らを利用した俗っぽい金儲けについても描かれていました。ドラマの中に出てくる悪徳教祖は「信者を食わなければ、こちらが食われてしまう」という意味のことを言います。彼らは自分のところに救いを求めてやってくる信者を食い物にすることしか考えていません。弱き者は盲目ですから、自分たちを救ってくれる奇跡に批評が働かず、冷静に外部から見たらとんでもなくおかしなことにお金を払います。

私が尊敬する脚本家の港岳彦さんは『仮想儀礼』の制作にあたって、自身の祖母の話をコメントしていました。ある新宗教の敬虔な信者である祖母が怪我をして片目を失明されたそうなのですが、そのとき「両目を失明せずに済んだのは神さまのおかげ」だと言ったそうです。これは神秘的なことを信じている人の典型的な認知バイアスの例で、もしそう思っているのだとしたら科学的な批評はまるで役に立たず、耳にも入らないのです。

もし、本来の本能に限りなく近い宗教があるのだとしたら、私は親鳥が雛に無心で餌を運んでいる姿を見て涙するくらいのことだと思っています。こうしたらあなたは幸せになる、こうしなければ不健康になる、と根拠のない非科学的なことを広めるのは罪悪だと感じます。そして、その教祖が売っている水を買えば幸せになるというのですから呆れます。友人の幡野広志さんも血液癌を公表してから、ありとあらゆるインチキ医学や宗教の勧誘に悩まされたと言います。その「よかれと思って教える」という姿勢がまず間違っています。「一瞬でがん細胞が消える」ような自然食があるのだとしたら、多くの科学者は何のために日夜研究しているのでしょうか。

もちろんいわゆる西洋科学だけが万能だとは思っていませんが、無果汁の『ガリガリくん・スイカ味』を地面に植えたらスイカが実をつける、と似たような言説と、それを無自覚に信じてしまう人には頭を抱えてしまいます。すると彼らはこう答えます。「こういう学会でちゃんと論文が出ている」と。それを調べてみると主催者が自分ひとりだけで作った誰も知らない学会であったりと、根拠と呼ぶにはあまりにも脆弱です。

そこで「スイカの種子を植えない限り、スイカは発芽しませんし、実もなりませんよ」と教えてあげる必要があるのでしょうか。

ここから先は

0字

Anizine

¥500 / 月

写真家・アートディレクター、ワタナベアニのzine。

多分、俺の方がお金は持っていると思うんだけど、どうしてもと言うならありがたくいただきます。