学校教育という制度は限界?

不登校について学ぶと必ず「学校教育の制度が古い」という意見に出会います。前回・前々回の記事で触れたNHKの番組でも「公教育のあり方、従来の学校教育の仕組みが壁にぶつかっている」と問題提起されていました(ただしここでは一斉授業をその例として口頭で挙げたのみでその後の深掘りされた言及はありませんでした)。

同じ地区に住んでいるという共通の範囲の子供が、6歳という共通の年齢になって一斉に学校に集められて、共通の教科書とカリキュラムの勉強をし、学校生活という共同生活をする、改めてこう考えればとても不自然な仕組み、特に当の子供にとっては理不尽とも思える制度とは言えます。

そして書籍などで一定数必ず出会う主張に「だから学校など行く必要はない」「学校制度はオワコンだ」などがあります。日本の学校教育は明治時代の学校制度導入の頃から変わっていない、明治の富国強兵や戦後の労働力確保のための「優秀な労働者(戦前は軍人も含む)」を作ることを目的とした仕組みである、そして特に戦後の高度経済成長という成功を生み出した、しかし時代が変わった現在、学校など行く必要はない、概ねこういう流れかと思います。

実際、その通りです。書かれている内容の理屈は通っており、至極納得できるものです。さらに働き方に不満を持っているものの変われない、変わる一歩を踏み出す勇気を出せない多数の社会人(自分もそうですが特にいわゆるサラリーマン層)にとっては非常に心に響くものがあります。決して荒唐無稽ではない一理ある主張、そう、「いつまで昭和的な生き方をしているの?」「サラリーマン生活でいいの?」といった類の主張と非常に似ているのです。本質は同じと言ってもいいと思います。そして大抵は結論として「やればいいじゃん」「なぜやらないの?」となっており、感想として「それができれば苦労しないよ」と心の中で呟いて、何も解決しないまま日常に戻っていくことを繰り返すことになります。

「学校教育は限界」、確かにその通りです。しかしだからといって「学校に行く必要はない」と短絡的に判断できるものではありません。「(不登校になった)わが子を学校に行かせない」と何の迷いもなく判断する親はいないでしょう。積極的にせよ消極的にせよ、あるいは長い時間をかけて結論に至る場合にせよ即断できたにせよ、親としては相当な不安と葛藤と戦い、熟慮と決断が必要です。

親には子供が学ぶ権利を確保する義務があります。その義務を果たすための制度として「学校教育」が用意されています。しかしそれは「6歳になった時点から9年間、地域の学校で同じ年齢の子供が集まって一斉教育を受け、共同生活をする」という「学校生活」という方法です。子供に「学校生活」の義務があるわけではありません。子供にあるのは「学ぶ権利」です。そしてその権利を行使できる環境を整える義務が親にはあります。子供にとって「学校生活」が受け入れられないのなら、それに代わる学べる環境を整えなければなりません。

日本の「学校教育」制度では子供が学ぶ権利を確保する方法、裏返せば親が子供の学ぶ権利を確保するという義務を果たす方法は、残念ながら「学校生活」というほぼ唯一のメニューしか用意されていません。そして制度疲労を起こしていることは確かです。そのあるべき姿をどうするのかを考えるのは国の教育行政の仕事ですし、またその現状に不安を抱く親は「いい学校に行かせる」という自衛策(その答えが正しいかどうかは別問題、また子供自身にとってではなく親の判断であるのが実情)を取るしかなく、その結果が受験戦争の再加熱です。

制度疲労を起こしているということは当然問題なのですが、それ以上に「唯一のメニューしか用意されていない」ということが問題です。国は不登校において「学校に戻ること」が唯一の答えではないと方針を示しました。「学校に戻る」という解決方法が機能するためには今の学校教育の制度疲労を解決することが必要です。と同時に「学校に戻る」ことに拘らない解決方法を新たに作る必要があります。そしてなにより親ではなく、子供自身が選べるようにすることが重要です。

すべてを国に用意せよと声を上げるだけ、というのも間違っていると思います。現在の小中学生の不登校は約30万人、調べてみると小中学生の人口は約900万人だそうです。不登校の割合は約3%、「学校教育」に変わる仕組みをもうひとつ用意せよというのは現実的ではありません。

国が用意する「学校教育」という制度をより良いものにせよ、という声を上げると同時に、自分たちがわが子にとって最良と考える学びを実践するため、すなわち自分たちが子供の教育という義務を果たすための環境を整えよ、との声を上げることが正しい姿だと思います。

学校不要論を読んで、そうだそうだと思っているだけでは何も解決しません。親として、自分の子供の学びの環境をよりよいものにするにはどうすればよいかを自分で考え、それを実践する方法を考えて、勇気をもって実行していくしかありません。

わが子が「学校に行きたくない」と言っている、「学校はみんな行くものだから行きなさい」では解決しないし親自身もそれは間違っていると理解している、という事実に向かい合うと、親としてしなければならないことは明らかです。子供に学びの大切さを教え、学べる環境を整えることです。そのためには「学びの大切さ」とは何かを親自身がもう一度考えなければなりませんね。


蛇足ながら書きながら思ったこと。国民の三大義務「勤労」「納税」「教育」、「教育」は記載の通り学校教育は制度疲労を起こしている、「勤労」は例えば賃上げや失業率、働き方改革など侃々諤々の議論がなされている、のに対して、「納税」の制度だけはきっちりと整っているものですね。



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