利己的な僕ら

これを言ったら彼は傷つくのではないか。
どうすれば彼女の機嫌はよくなるのか。
どうして彼の気分はこうも変わりやすいのか。

そうした思考をするクセを持っていた僕が、少しだけ生きやすくなった過程をここに記す。

それは「利己的に生きていい」という赦しだった。

利己的に生きていい

僕の日常

他者からの意見に左右され、或いは他者の顔色から伺い知れる他者の感情に影響されて生きてきた僕は、争いを嫌い、平和を望み、欲望を我慢し、感情を押し殺し、他者に優しくすることが良いことだと信じて生きてきた。

自分よりも彼らを優先し、喜ばせることで、僕は居場所を得る。
よいことをしたら、彼らは僕を受け入れる。
悪いことをしたら、彼らは僕を拒否する。
ただそれだけのことだ。

でもその彼らは、僕がこんなに気遣って行動をしているのに、時に機嫌が悪くなり、時に言い争いをする。
彼らは、僕がどんなに気を遣っても、言いたいことを我慢しても、彼の都合次第で怒るし、悲しむし、僕にとってヒドい言葉を投げかける。

面倒だ。
彼らも僕と同じように、平和を望むようになれば。
彼らも僕と同じように、欲望を抑えるようになれば。

そう思いたくなる。
いや、むしろ逆に、そう思いそうになることすらを必死に抑えて、僕が悪かったのだと思い込もうとすることもある。

そして僕は力を失い、関係性で雁字搦めになる。

彼らが一番傷つく言葉をいつの間にか発してしまうこともあれば、
彼らとの関係の一切を絶ち、二度と話さなくなることもあれば、
必死に自分を押し殺し、何とかもっと彼らの気に入るようになれないかと考えることもある。

そしてまた自分を責める。
どうして僕はこんなこともできないのか。
どうして僕はこんなことをしてしまうのか。

僕は優しくない

こんな日常を生きている僕は、必死に「優しく」あろうとする。
そう。決して彼らを傷つけたいなんて思っていないし、幸せであって欲しいと思っているのだ。

なのに、どうして彼らは機嫌よく居てくれないのか、
どうしてこんなにも彼らを気遣った僕の行動は失敗に終わるのか。
こんなにも、「優しく」あろうとしているのに。

違う。

そこだ。

そこにゴルディオスの結び目がある。

彼らを気遣っているその瞬間、僕は"優しく"ないのだ。

自分と世界

ちょっと待て。
そもそも僕と他者との間に生まれる"優しさ"とは何なのだろう。
それを単なる概念としてではなく、リアルな真実として理解するために、あらゆる仮定を取り払っていく。

すると根底の仮定にたどり着く。
僕は存在しているという仮定。
世界は存在しているという仮定。

仮定?いや、自分も世界も存在している。なんの疑いようもない。
そうも思える。

ではどうして何の疑いもなく、自分も世界も存在していると思えるのか。

少し考えてみると、必ずその理由の中に、自分の意識というもの/活動が登場することに気づく。
自分の意識がなくては自分の存在、或いは世界の存在を感じることは出来ない。

世界が先に存在していて、意識が生じる?
確かに。その考えもある。
では誰がそれを証明してくれるのか。
いま僕が質問を投げかけているのは、他ならぬ僕自身に対してだ。
僕だけの真実として、この世界が存在していると確信・経験出来るのは、僕自身の意識が世界を認識しているからだ。

そう。
世界は、僕の意識が欠けては存在しない。

この前提で、僕が"優しさ"を向けたいと必死になる他者というものを考えてみる。

"優しさ"

ようやく"優しさ"を定義できる。

それが僕の意識を通してしか存在しない世界の一部たる他者への態度である以上、いかに"優しい"のか、は僕の意識を通してしか測れない。

なのであれば、"優しさ"の定義は僕が定義してよいし、僕にしか定義できないのではないか。

ではここで少し立ち止まって、これまで僕が「優しさ」だと思っていたものは、僕が定義したものだったか。

いや違う。
社会通念や、近しい他者の意見や、或いは「優しい」と言われる人の周囲に生まれる友人関係への憧れや。
それらに影響されて定義された「優しさ」は、僕の心の奥底で確信を以て受け容れられないまま、習慣の深部に根を伸ばしていった。

「優しい」人間は、いつも思いやりに溢れ、争いを嫌い、自身の小さな欲求よりも他者の幸福を望むはずだ。

そんな「優しさ」は、僕から力を奪い、僕を奴隷のように扱う。

こんなものに苦しめられた日常から逃げ出そう。
僕が本当に、自分の意識を通して正しいと思える"優しさ"とは何なのか。
それを考えてみよう。

他者に益すると信じる行為を、他ならぬ僕自身が行わずにはいられないとき、その態度を"優しさ"と呼ぶのだ。

この世界の存在、或いは他者の存在の根源たる自分自身の意識が、それを望むから、その人に共感するのだ。
ここに、客観的な他者の評価は一切介入しない。
だからこそ、内から力が湧き上がるのだ。

このように考えると、なんと生きやすいことか。
過去の「優しさ」が、なんと自分の首を締めていたことか。

他者の背後に人格を見る

ここまでの思考に至ると、さらなる気づきがある。

他者にとっても、その人自身が存在しなければ、その人にとっての世界は存在しないという気づき、
そして、その人もその人自身の意識が望むからこそ、あらゆる行為を成しているという気づきだ。

自身の人格を見失って生きてきた僕にとって、この気づきは本当に衝撃的だ。

他者と争わないように、みんなが我慢して、欲望を抑えて、生きればもっと平和になるのに。
なんてことを僕は考えていたのに、
みんなはそんなことを考えずに、ただ自身のために生き、でもこの親切な社会は成り立ち、彼らは僕に"優しく"してくれているのか。

みんな、なんて"優しい"んだ。

この世界はそんな奇跡の上に成り立っているのか。

そんな衝撃を経て、世界が奇跡的に美しく、キラキラと輝き出す。

みんな利己的なのだ。
利己的だからこそ、この世界は美しいのだ。

利己的に生きることしかできない

利己的に生きること、それが許されることで、
僕はより深く、自身の内側へと目を向け始める。

僕は何のために生きているのか。
善きこととは何なのか。

その答えは、"優しさ"と同様、本を読むだけで、人に教わるだけでは見つからない。
何が善いことなのか、それは僕にしか決められないのだ。

なのであれば、どこまでも利己的に、自身の本心を見つめ、それに従って生きることしか出来ないではないか。

自身の本心を見つめ、内から湧き上がる力で強く一歩を踏みしめながら歩き出す。
その態度は、今までの自分よりずっと、感情に満ち溢れ、しかし勇敢で、優しいのだ。

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