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樋口あんことは。

樋口あんこです。
自称物書きです。住所は不定で、年齢性別は不詳です。
趣味は格闘技とかプロレス観戦の厄介オタクです。

物書きを専業でやってる訳ではないし、むしろ本職の方が色々とやってたりします。ただ散らかった文章を書くのが好きなだけなヤバい人かもしれません。

物書きに憧れたのはいつだったか。
小学校1年生の時に、生まれて初めての読書感想文を夏休みの宿題に課せられ、国語や算数などの答えのある宿題とは違い、イチから正解のない文章を生み出す作業が不気味で仕方なく、母親に泣きついたのを覚えている。
そもそも読書をする習慣が無かった私が本の感想文を書くこと自体がインポッシブルなわけで。
結局、最後は「アリからみると」という児童書の感想文を母親の執筆部9割で書き上げ、事なきを得たのが最初の文章との出会いだったかもしれない。ちなみに「『アリからみると』をよんで(仮題)」はクラスの代表で市のコンペだかに送られることとなり母親がめちゃくちゃ動揺してたのを覚えている。もう時効だしコンペも落ちたはずだから多分大丈夫。

それから小学4年生くらいまで本を読むのが苦手だったが、父親は私に小説を読ませたかったらしく、児童書やら少年向けの小説やらを買い与えてはそれを小学校に持っていって朝の読書の時間にペラペラと挿絵の部分だけをめくる時間を過ごしていた。

初めて活字の本を読み切ったのは10歳の秋ごろで、たしか「十五少年漂流記」だった気がする。
内容は全く覚えてないし、あんまり面白くないなと思いながらもなんとなく読み切った。感動はあまりなかった。

そして、その次に読んだのが森見登美彦の「四畳半神話大系」だった。
父と近所のTSUTAYAでレンタルDVDを借り、そのついでに小説のコーナーに一緒に入った時に目に入った表紙に目を奪われ、父にねだって買ってもらった。父は本に関してはなんでも買ってくれたが、「最初の5ページを読んでつまらなかったら読みきれないから」と立ち読みしてからカゴに入れるように言ったが、小学4年生に森見登美彦文体がわかるはずもなく。しかし表紙のデザインと、おおよそ難解な文体を読んでる自分を想像して「面白そう」と言ってカゴに投入した。のちに一ヶ月近くかけて読破したのが、私でも本を読めるという自信を与えてくれた。ありがとう森見登美彦、ありがとう中村佑介、ごめんなさいジュール・ヴェルヌ。

それ以降は森見登美彦の四畳半よりは幾分読みやすい「夜は短し歩けよ乙女」「太陽の塔」といった既刊を読んではまだ見ぬ歪な大学生活を空想し、父に勧められた山本周五郎の「さぶ」を読んでは江戸っ子人情なるものを知った気になりと言った文系小学生が誕生した。

中学に上がると読書をする子の間では流行りの作家というのが話題にあがり、私の中学だと有川浩が筆頭だった気がする。ちょうどライトノベルが流行になっていた時期で、森見や山本なんかを読んでいた私には逆にちんぷんかんぷんだったが、有川浩の文章は読みやすくサクッと読めたから「ライトノベルってこういうことか」と思ったのを覚えている。

中学高校では読書感想文をまさか親に頼むはずもなく、自分で楽しみながら書いていた。周囲には夏休み終盤に悲鳴をあげる友達もいたが、国語の教科書が配られたらとりあえず読んでみる文キチになっていた私には奇特な人に見えたし、友人も私のことを奇特な人として接していたに違いない。

ただ、執筆活動をするには至らず、部活を頑張るゴリゴリの体育会系として過ごしたのでその頃には物書きに憧れることもなかった。

大学生になり、ゴリゴリの体育会系から脱した私はゼミの教授にそそのかされて大学主催のエッセイコンペに応募することになった。
なんてことないエッセイだったが、果たして他にお応募した学生が適当に書いたのか、はたまた教授の掌が働いたのか、大賞を取ってしまった。

審査委員長の先生が「君ならこれで食べていけるよ」と出版社に取り次いでくれるような事を言ってくれたが、何かの間違いだと思っていたので丁重にお断りした。あと締切に追われて文章を書くという事にひどくビビっていた。

あれから数年経ち、自分のやりたい仕事をしながら、どこかに刺激を求めてはじめて物書きに憧れてみた。

志すほど良い文章が書けるわけでもないし、胸を張って物書きを名乗れる訳でもないが、好きなことに囲まれて生きることが必ずしもできる世界じゃないことをこの数年で思い知った。でも、大きな決断も目が飛び出るようなお金も必要のない物書きを趣味にして、乱雑な文章を散らかすくらいはできる世界なので、私はここに徒然と私の事を書き残す。

樋口あんこはそういう事がしたい人。

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