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高村芳『ショッキングピンクの印』批評

高村芳『ショッキングピンクの印』

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今回は辛口コメントをご希望されていますので、少々厳しい表現が出てくるかもしれませんが、ご容赦ください。
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yo 評

今回は高村芳さんの『ショッキングピンクの印』という短編を拝読しました。ここで描かれているような「身体的には男性であるが、なぜか男性に目が行き、マニキュアを塗ってもらうことに楽しみを感じている」という状態はトランスジェンダーの特徴と似通っているようにも見受けられますね。しかし、主人公の「僕」は自身のこうした感情をまだうまく受け止めきれずにいます。自分の性自認に迷いが生じ、まだ模索中であるという点では、「クエスチョニング」という括りが現時点ではちょうど良いのかもしれません。
文学はこうした「普通への懐疑」という視点は非常に重要だと考えていますので、その一つとして(しかもまだ議論が揺れていて非常に繊細な記述を要求される分野である)LGBTQを取り上げて書かれているというのは大変すばらしいことだと思います。

前半でこのような切り口で文章を書いたのは、この短編のテーマが「性自認の揺れ」だと感じたからです。
タイトルは「ショッキングピンクの印」です。マニキュアを「印」として何かを指し示す証として表現されています。冒頭の段落では男性と思しき「僕」が、(一般的に男性はやらないはずの)マニキュアを塗ってもらっているという意外性を提示しています。そして短編の後半では、自身の性自認が揺れていること、その悩みが坂本さんとの交流で少し救われている、とあります。
もし高村さんがそのつもりで書かれていたら安心なのですが、もし違ったらと思うと少々不安な気持ちにもなります。秘密の共有、恋愛、無理解への反抗。切り口を変えてテーマになるか検討してみましたが、坂本さんとの恋愛的要素はあまり見られませんし、他の2つはいずれも「何の秘密?」「何の無理解?」と問えば性自認だと答えずにはいられません。
したがって、もし異なるテーマを掲げて執筆されたということであれば、ぜひご教示いただきたいと思います(読んでいるだけでは私はわからなかったので)。

そしてテーマは「性自認の揺れ」だとした前提で、改めてコメントをしていくと、今回の4000字弱の紙幅では難しいかもしれませんが、続編でも良いので以下の点を含んだ物語が読みたいなと思います。

・「僕」がなぜ性自認を模索することになったのか
例えば、「野球帽をかぶって汗を流している彼」を追ってしまうことに気づいたときに、「僕」は動揺したのでしょうか。彼が練習に参加していない(技術室から見つけられない)とき、どんな気持ちになるのでしょうか。彼と直接会話するとき(またはそれを想像するとき)、「僕」はどんな態度で接するのでしょうか。

・模索するという状態に対して自分でどのように捉えているのか
例えば、「この感情は何なのか、このままでいいのか、このままでは駄目なのか。十七歳の僕には、まだ判断がつかない」と「僕」が言っているとき、「僕」はどんな気分なのでしょうか。文体からは冷静そうに見えますが、この点で悩む人は、日常の中に実に多くの「周囲とのズレ」を感じるようですので、すぐにそのズレに深く悩む日が来ると思われます。その際に、「僕」は自身を普通にしようとするのか、それともありのままを受け入れてくれる仲間を探そうとするのでしょうか。

・周囲とはどういった関係を構築しているのか
おそらく周囲には話していないだろうと推測されますが、例えば男友達同士で「好きな異性のタイプ」を話しているとき、「僕」は何と答えるのでしょうか。


また最後に一点だけ、文章表現についていくつか気になった点をコメントさせていただきます。

・「この埃と油と静けさと光にまみれた技術室」
静けさや光に「まみれる」ことはないと思います。「まみれる」は「汚れる」に近い表現で、ネガティブな印象がついて回るので、おそらくポジティブ面と思われる静けさや光には「包まれる」「満ちている」等が妥当なように思います。

以上です。内容に関するコメントをしたくなってしまったので、あまり辛口ではないかもしれませんが、ご容赦いただければと思います。読ませていただきありがとうございました。




齋藤圭介 評

「爪に火を点す」という。ご存じ、困窮による倹約生活のことをいう成句である。つまりは「爪」とは、身体的道具の最終手段なのである――そういえるかもしれない。そんなことを思った。
その末端に装飾を施すのだから、これはさも切実なことかと思われる。しかし、これは例えばお化粧のたぐいでも、より自己の満足にこそ近しいものだとも思う。甚だ勝手な推測ではるが、理由としては、それによって例えば異性が惑わされるということが、もっというと、それによって恋に落ちるということは、ないことに等しいと思うからである。
わたしはこの小説を読んでから、試みにネイルを施している女性に、どうしてそのような装飾をするのか、率直に、何も知らないふりをして、子どものふりをして、聞いて回った。それら色とりどりの十棟の小さな壁画たちに、振り回されるように振舞って、まるでそれらをはじめて見るような心もちで、聞いたのである。――異国の文化を尋ねるように。
しかし、はじめからわたしの作戦は失敗したのであった。なぜならば、どのように大人の女性でも、わたしがこの質問を投げかけたときには、こちらがいかに子どものふりをしたところで、大人として教え諭すというような態度は、微塵もなかったからである。むしろこちらよりも子どもがえりして、言葉をしぶりはじめるのであった。同じくこちらが何も知らないふりをしても、その無知を知で補うということは全くなかった。むしろその感情は、その疑問に対する共感のようにも思えた。
そうして最終的につぶやかれる答えは、おしなべて「自分の気分が良くなるから」という、そういう種類の文言であった。周りを気にして――というようなものもあったが、それは異性というよりは、より同性に対するものであった。

僕は、坂本さんのマニキュアに。

「――救われてるんだ」

僕が思っている以上に、自然と言葉にできた。そう、僕は彼女に救われているのだ。彼女は静かにひとつ頷いて、鞄の中から小ぶりなプラスチックボトルを取り出した。除光液だった。

最終手段ということは、それは即、救助要請の合図ということになる。それら凹凸や光沢のある目も綾な貝殻を身体にして共有している自己に対しての、ほんとうはもうそれ以上はどうすることできない〈お手上げ〉のメッセージを、もしも他者とも共有出来るであれば、それはほとんど暗号である。例えばそれが鮮やかなピンク色の印であることもあるだろう。もちろん、性別も問わないだろう。問わないというよりも、ネイルを施すという行為自体には、それはまったく関係がないのである。
例えばその救助活動が、誰もいない放課後の校舎の技術室にて行われることもあるだろう。それがごく普通に見える男子高生と、ごく普通に見える女子高生の場合もあるだろう。そしてその暗号を解さない人にとっては、それが怒号に変わることもあるだろう。

「能ある鷹は爪を隠す」という。それは単なる秘密ではない。むしろ披瀝することを前提とした、処世術であると思う。人それぞれの個性的才能は動作の末端に現れ続けてしまうので、われわれは時としてそれらを隠しながら身動きをする。ある人にとってはこの爪は常に隠されているので、それらひとつひとつの僅かに歪曲した受け皿に、本当は煌びやかな装飾がなされていることは誰も知らない。同じように、それら装飾によって本当の姿を隠しているとも言えるだろうネイルアートの真相は、例えばわたしが試みに実践してみた具合の一問一答形式では、到底知り得ないものなのかもしれない。
それでいてやはり子どものようなふりをするから、そこにまた奥深さがあると思うのである。

批評の程度を厳しめで頂いておりましたが、具体的な指摘が出来ず申し訳ございません。何点か思ったことは、より表現としての文学作品を目指すのであれば、それなりの描写が必要だと思いました。爪を塗る、という行為。まず身体が屈む、目線も絞られる。そこに映えてくる色や造形の優艶。
もちろん作品の方向性もあると思います。読みやすいものとして書くのであれば、さっぱりとした良い文章だと思いました。しかし個人的な趣味からすると、主題が良いので勿体ないような気がしました。例えば谷崎潤一郎の幾つかの短編のような耽美的な色彩感を、期待してしまいました。

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批評は以上となります。
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