見出し画像

お花見、しますか。

また、春がやってきてしまった。とても嬉しい。

私は毎年、しみじみと思っているのだけれど、春とは別れの季節だと思う。出会いや新しい生活のスタート、始まりの季節。
駅には溢れかえるそんな広告を横目に、この桜の咲いていく時期、大抵私は誰かとの「最後の約束」に向かっている気がする。

新しく始まるというのは、前が終わったから変わらざるを得なかっただけじゃないだろうか。鶏と卵みたいな話。私は「終わりがあるから始まる」派である。「始まるから終わる」は、人生だけだ。


終わりについて、「立つ鳥は後を濁さず」という言葉がある。

立ち去る者は、見苦しくないようきれいに始末をしていくべきという戒め。 また、引き際は美しくあるべきだということ

後を濁さない。難しいことだ。そこそこに存在感を持って生きていて、その場を濁さず綺麗なままにしておくのは至難の業だから。
仕事でも、人間関係でも、何かしらそこにいて、いる意味をなしている時点で濁していると思う。濁る=悪ではない。あくまでそれはただの痕跡。

まあ、言葉の意味でいえば、よくわかる。見苦しいのはちょっといただけない。目立たず濁さず……そんなのはあまり面白くないので、残した波紋が美しいぐらいでいいなと思う。
ところで私の中でこの鳥はいつも水鳥なのだけど、正しいだろうか。


この季節はとにかく色々なことが終わりに近づいている。
私は始まりより終わりが好きなので、次に迫る始まりよりも目先の終わりをついつい意識してしまうし大切に感じてしまう。

部活もサークルも学校も、コミュニティに馴染むのが死ぬほど苦手なわりに、いつもいつも終わり際には誰よりも好きだった様な気持ちになる。なんでもない顔をして「最後の」飲み会にも行く。
いつもより愛想もいい。「最後だし」という免罪符があるおかげで、私みたなのが親しげにしてごめん、という気持ちがあまり湧かないせいかもしれない。

最後だけいい顔しやがって、とも自分に思うけれど、「でも最後だからいっか」で片付く。死んだら全て終わりと思っているから、同じ様な感覚かもしれない。だからこの時期の私は自分のことを「もうすぐ死ぬ人」としてよく扱っている。あれは、そういうことです、みなさん。儚い命です。

水鳥って、水面にいるときに騒がしかったり水をやたらと波立たせるのはちょっと悪目立ちする。でも飛び立つ時ってどう頑張ってもみんな音を立てるし波紋も残していく。そういうことだと思う。

ただ、終わりが見えた途端に湧き出てくる愛着のせいなのか、「最後の飲み会」に混じって「久々の約束」が混じってくるのは余計にこの時期を楽しく愛おしいものにしてしまうのでどうかなと思っている。
「最後だから」を理由にした約束の中には、二度と会えない様な関係を、「久しぶり」でリセットする様なものが混じる。いいぞ、もっとやれ。

それもまた、いなくなる時の波の中にあればたいして目立たないので、ぜひこの時期をより一層思い出深いものにしてください。

手放すと決まった途端大事に見えるというのは、とてもありがちで、そして惜しいことをしている気もするけれど、すぐに散る桜が好きなのもそのせいでしょう。
じゃあ、ちょっと缶ビールとか持って、散歩がてら花見へ。


PexelsのFrank Coneによる写真

PexelsのDidsによる写真

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?