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The Path to Enlightenment Ⅱ 悟りへの道 苦とは ルアンポー・プラモート師

(続き)苦(ドゥッカ)とは何か、仏教では苦(ドゥッカ)を普段私達が認識するよりも広く深く詳しく観ることをします。

苦(ドゥッカ)とは痛みの感覚(dukkha-vedanā) です

 この感覚を私たちは皆知っています。身体の痛み、心の痛みの事です。瞑想実践をしたことのない人はこれらの感覚はほとんど生じないと感じるかもしれません。しかし、その実践の状態になったならば、痛みの実感が絶えず生じる事がわかります。例えば、身体に気づきがあるとき、痛みはまるで野生の獣の様にいつでも私達を追いかけて傷つけようとしていると解るようになります。この痛みは私たちが姿勢を変え、物を食べ、飲み、排せつさせ、拭き、洗い、傷つけ、吸い込み、吐き出すなど、その状態に留まらない様にします。私たちは最後には病気になり、それから逃れられない程弱まり、死ぬ間際の最後の一息までそれは私達を消耗させるのです。心の痛みが和らぐとき、私たちは良い気分になります。しかし、苦はまた私達にすぐに追いついてくるのです。
 もしも「認識する」という事にに気づきを持つのであれば、私たちは絶えず圧迫されていると解るでしょう。意志が低い時私たちは楽を感じます。しかしストレスが高まるほど苦を感じるのです。

不満足(dukkha-lakkhaṇa)としての苦(ドゥッカ)があります

 この種の苦は普通の感覚では苦だと感じません。無常である為に満足する事ができないという状態の現実すべての指す特徴があります。 (身体、心、心の形成(Saṇkāra)は永続することが無いという点において不満足のものである)つまりこの定義に当てはめると、続くことは無いという点において幸せであっても不満足のものなのです。苦(ドゥッカ)に内在するこの性質は法の実践を行うならばより明確に感じる事になります。今の段階では苦の性質は満足する事が無いという事を知っておいてください。

渇望することとしての苦(ドゥッカ)があります

 この種の苦は人間にも動物にもいつでも生じますが、このことに気づく人は非常にまれです。修習の実践者はこの苦についてある程度認識することが出来ます、特に心を観る場合です。実践者は渇望(samudya)が苦の原因であると観ることが出来ます。もしも渇望や執着(upadāna)が生じたならば苦(ドゥッカ)もまた生じるのです。もしも心が渇望や執着から自由になるのならば苦は生じないのです。そして自動的に気づきが生じ目覚め明るく安穏となるのです。この段階まで洞察力を高めた修習者には高い集中の状態を得るのです。そして心は自動的に目覚め安定するようになります。これは不還果(Anāgāmī;アナーガミー)の段階になります。この段階まで洞察力を高めてきた人の中には、満足しそれ以上進歩しようとしない人もいます。なぜならば天界から落ちる事は無く幸福を超越しているからです。

四聖諦の苦(ドゥッカ:Dukkha-sacca,五蘊の苦)があります

 この種は苦は最も深いところにあります。苦を完全に理解し悟りを開いた人だけが輪廻から自由になることが出来ます。これは何故ならば痛みの感覚の理解は皆同じです、一方不満足の洞察は実践者(puthijjana)によって観られていますが渇望による苦の理解は完全には理解されていません、なぜならば心はまだ、ある状態は快であり、ある状態は不快であると信じているからです。ここまでの修行者は不還果(Anāgāmī)までは到達するのです、なぜならばこの修行者はもしも渇望や執着が生じたならば苦も同じように生じると解っているからです。ですからこの段階の修業者は心が安定している事に非常に満足しており、外からの渇望の原因となる刺激を受け流すことが出来るのです。渇望が執着させたりそれ以上進めたりすることは出来ずないので、目覚め明るい心が生じるのです。

 完全に智慧が完成した時のみ本当に四聖諦の苦を理解する事が出来ます。その苦とはナーマ(名)とルーパ(色)の現象である五蘊の事で、すなわち心と身体それ自体が苦であり、渇愛と執着が有ろうが無かろうがそれ自体が苦であるということなのです。苦(ドゥッカ)以外何も生じるものは無く、苦(ドゥッカ)以外何も滅するものは無いということなのです。
 
身体も心も時には楽があり時には苦があるものでは無いということのなのです。真実は全てが苦なのです。苦が大きいか小さいかだけの違いなのです。完全な智慧によって心が五蘊は苦であると理解した時、四聖諦がはっきりと理解されるのです。渇愛は苦の原因であり、苦への無知が渇愛を引き起こすのです。そのために終わりの無い輪廻が生じるのです。苦への完全な理解だけが苦を終わらせることが出来るのです。渇愛つまり苦の原因が目の前で自動的に滅し、苦(ドゥッカ)が終わるのです(nirodha,nibbāna).この瞬間輪廻の輪が壊れるのです。

 誰であっても五蘊、身体と心の現象の原因が苦であるという真実を観る人は完全に五蘊、身体と心の執着から自由になるのです(Avijjā 無明が洗い流されvijjā明が生じるのです)。苦の条件はまだ存在します。しかしながら苦に煩わされることはもう無いのです。私たちの身体と心に幸せを与えたり苦をもたらしたりする渇愛と執着は自動的に無くなるのです。この幸せを求め苦から逃れようとする心の形成、行(saṅkhāra/bhava/kammabhava)は終わりに到達するのです。心は身体と心の現象(Jāti)を手放す様になるのです。涅槃、苦の消滅により心の汚れと五蘊から自由になるのです。

心の修習(satipatthāna)だけが四聖諦の真実を知る為の道なのです。心がその真実を理解する度に渇愛と執着は弱くなっていくのです、そして最後には観完全に心と身体の苦から自由になるのです。

 ブッダの教えである実践を通じて苦から自由になる、その苦とは五蘊の事なのです。一たび苦の真実が分からないという無明を心から取り除いたならば、身体も心も一時的な現象であり満足することは無く、それ自体思い通りにならないものであると観え、すぐさま苦を呼び起こすこの五蘊に再び戻っくることは絶対にしたく無いと感じるのです。身体の痛みを避けることは出来ませんそれに従い生じるものなのです、身体が苦であったとしても心はもはや苦しみでは無いのです。そして最後の瞬間、五蘊が死ぬときにもはや何も新しく形作られないのです。苦からの完全な自由が得られるのです (続く)

The Path to Enlighetment Ⅱ Venerable Luangpor Pamoto Pamojjo


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