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杖をついて歩くということ(自宅待機 8)

 1月も下旬になると、だんだん重いものを持てるようになってきて、お惣菜とキュウリを買って、片手にぶら下げて持ってこられるようになった。

 この冬は雪が多く、みぞれが降ってひどく寒い日もあった。雨やみぞれが降ると傘は重いし、杖をついているから両手がふさがって不便だ。
 物を持つことを考えると杖を外した方が便利だが、右足がまだ弱いので、杖をついていると安定感があるし、道行く人もよけてくれることが多い。

 自分が杖をつくようになって、世の中には足の悪い人が多いことに気がついた。
 老人は杖をついている人も多いし、杖をつかなくても軽く足をひきずって歩いている人もいる。
 若い人でも足の不自由な人はけっこういるものだ。
 足が丈夫なときにはそういう人たちに目が行かなかったのが、一歩外に出てみると、日に何人も杖をつく人を見かけるようになった。

 足の丈夫な人は、杖をついている人が目に入ってもすぐにはよけず、すれ違うときになって素早くよけたりする。
 足の悪い人間にとってはこれが危ない。
 歩くスピードが遅いから向こうが近づいてくるのが早いし、反射神経が鈍いからとっさによけることができずバランスを崩してしまう。
 緊張して踏ん張ろうとすると(実際には踏ん張れないのだが)、弱い足や痛い足に負担がかかる。

 ある日、遠くのスーパーへ買い物に出掛け、信号のついた横断歩道を渡っていたら、後ろから小学高学年の女の子たちが走ってきた。
 そのうちの1人が私の脇を走り抜けるときに、脇腹に触れるほど近くをすり抜けていったのでヒヤリとした。

 信号を渡り切って歩道を歩いていたら、後ろから小学生の一群がワイワイ言いながらやってきた中に、さっきの女の子たちもいた。
 またしても私の後ろから走ってきて、あろうことか、私がついている杖を蹴飛ばしていった。

 ちょうど杖を持ち上げたタイミングだったので助かったが、杖を下についているときだったらよろけてしまっただろう。
「これは言ってやらなくちゃ」
 そう思って早足で追い掛けていったが、私の早足は普通の人の普通の速度なので、走っている子供に追いついたのは、その子たちが走るのをやめて、とあるビルに入ってからだった。

 ビルの階段を上っていく子供を呼び止めて、下に下りてこさせ、注意したところ、そばにいた親だか教師だかが神妙な顔で謝った。
 親や教師に謝ってもらいたかったんじゃない。
 杖をついている人に気を配ることを学ばせたかったから追い掛けたのだし、本人に謝らせて欲しかった。

 これとは反対に、嬉しかったこともある。
 やはりスーパーに行った帰り道、住宅街の裏通りで、一見して障害があるとわかる男の子が向こうからやってきた。
 その子はすれ違うときに、元気よく「こんにちは」と挨拶してくれて、私が首にカラーをはめて杖をついているのを見て、「お大事に」と言ってくれた。優しいな。

 それからまた、こんなこともあった。
 近くのコンビニに食料を買いに行った帰り、マンションの下のゆるやかな勾配の道で、向こうからミニカーに乗った子供がやってきた。
 3歳ぐらいだろうか。プラスチックの車にまたがって、ごろごろ音をたてながら、気持ちよく坂道をすべってくる。
 後ろから母親が赤ん坊を乗せたベビーカーを押してついてきた。

 歩道は狭いので、ミニカーに乗った子供と、杖をついた私がそのまますれ違えそうもなく、どちらかが立ち止まって道を譲らなければならない。
 歩きながらそう考えていたら、私がよけるより先に、その子がミニカーの両脇に足をついて停め、車を両手で持ち上げて道の脇に寄った。

「ありがとう」
 にっこり笑って脇をすり抜けると、男の子は振り向いて母親の顔を見た。
「行っていいよ」
 母親は無愛想に男の子に言った。
 笑顔で言ってあげればいいのに。いい子なんだから。

 電車の中では滅多に席を譲られることはなかった。
 路線によって、混んでいても優先席が空いていることが多かったり、比較的すいている車内でも目の前に杖をついている者がいても知らん顔という人がざら、という線もあった。

 私は腕を上に上げるのが大変だし、つり革につかまってバランスを取るには足元が不安定なので、人が多くて移動しにくいときはドアのそばの手すりにつかまって立っている。
 立っていると、しびれている左足が痛くてたまらない。

 すいている時間帯は優先席の近くに移動して、大きい子供や若い元気な人が座っていたら、譲ってもらえないか頼んでみることにしていた。
 たいていの場合、快く譲ってくれるし、私も降りるときにはもう1度お礼を言った。

 けれども、優先席に座っているのが微妙な年齢の(高齢者ではないが決して若くもない)人だったり、疲れているかもしれない会社員だったりすると、こちらも譲って欲しいとは言いにくい。
 それで、座席の脇の手すりにつかまって立っていると、その人が次の駅で降りていくこともよくあった。

 好意的に解釈すれば、たったひと駅だから自分が降りてから座ればいいと思っているのかもしれないが、逆に、たったひと駅なのだから席を譲ってくれればいいのにと思う。
 足の悪い人間にとって、ほんの数分でも立っているのは辛いし、電車が急停止でもすれば危険なのだから。

 世の多くの杖をついている人たちのために、ここでお願いしておきたい。
 電車の中でそばに杖をついている人がいたら、よっぽどの理由がない限り席を譲ってください。


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