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シャンプー事件(頚椎腫瘍 18)

 通常は術後10日目に傷口の抜糸があり、その翌日にはシャワーを浴びてもよく、さらに何日かするとシャンプーの許可も出ると聞いていた。
 私は11月22日に手術をして、12月2日に抜糸、翌々日にシャワーを浴びた。
 ところが、それから1週間近くたってもシャンプーをしてよいと言われなかった。

 毎日回診のときにシャンプーの許可が出るかと心待ちにしているのに、一向に先生の方からは言ってくれない。しびれを切らして、N先生が来たときに聞いてみた。
 先生はうっかり忘れているのだろう。即座に「いいですよ」と言ってくれるに違いない。そう思っていたのに、
「いやあ、シャンプーはちょっと」
 と言う。
「え? どうしてですか?」
「こうして洗うと良くないんですよ」
 先生はそう言いながら、自分の両手を頭の後ろに回して洗う真似をした。
 私は両手を上に挙げるのがいけないのかと思ったので、
「じゃあ、看護師さんに洗ってもらうのは?」
 と聞いた。
 ところが、それもだめだと言う。頭を洗うときの振動が首の骨にひびくのだそうだ。
「臨床のデータがないんですよ。試しに洗ってみて、大丈夫だったらいいんですけど」
 と言うので、
「試しに洗ってみて、大丈夫じゃなかったら?」
 と切り返すと、もごもごと口ごもってしまった。

 私は手術前に入浴して洗ったきり、かれこれもう20日も髪を洗っていない。
 髪の毛は重たい油をつけたように、こてこてに固まっている。
 触ると刺激でかゆくなるといけないので、なるべく触らないようにしている。むろん、櫛の歯など当てていない。そばに寄ったら臭うんじゃないだろうか。

「いつまで洗えないんですか?」
「首のカラーが取れるまでです」
「えっ、4カ月も洗えないってこと?」
「ま、そういうことです」
 無情な返事を残してN先生は去っていった。

 えー!! 4カ月も髪を洗わずにいるんだって!? 一体どうやって街中を歩けばいいの? 退院したって、社会復帰できないじゃない。

 その晩、私は4カ月も髪を洗わずに、どうしたら仕事に戻れるか、人に会ったり、街を歩いたり、電車に乗ったりできるのか、真剣に考えた。

 頭をすっぽり覆う毛糸の帽子をかぶろう。

 でも、寒い間はいいとしても、3月になって、毛糸の帽子などかぶれないぐらい暖かくなったら困る。
 しかも私は花粉症で、マスクをしないと外に出られない。マスクと帽子じゃ、いくらなんでも汗をかいてしまう。
 第一、帽子をかぶったところで、何カ月も洗わない髪は臭うだろうし……。

 ろくに眠れないまま、暗い気持ちで朝を迎えた。
 精神状態が体調にも反映するのか、朝から具合が悪かった。

 その日の回診はO先生だった。O先生は中堅の先生で、N先生の先輩格だ。
 つい愚痴が出て、N先生に首のカラーが外れるまで、4カ月もシャンプーを禁止されたと訴えると、
「いいよ、洗っていいよ。僕がOKするよ」
 と、嬉しいお言葉。
「Nくんに、自分が4カ月髪を洗わずにいてみろって」
 ありがとう、O先生! 
 これですっかり気が晴れた。

 けれども、律儀な私としては、主治医のN先生がダメと言うのに、逆らってシャンプーするのはちょっとためらわれた。

 毎週金曜日は総回診といって、中井先生が他の先生たちを引き連れて、3階から6階まで各病棟の病室をすべて回る。
 患者は少なくとも週に1度は中井先生に会えるわけだ。

 私はこのチャンスを逃さず、N先生の直属の上司(医師の世界でもこういう言い方をするかどうか知らないが)である中井先生に聞いてみた。
「先生、私、シャンプーしてもいいですよね?」
 案の定、中井先生は「いいよ」と言われたので、
「N先生ったら、4カ月洗うなって言うんですよ」
 と言いつけた。
「それだけ慎重なんだよ」
 さらりとかわして、中井先生は患者の前で部下をフォローした。

 そして、待望のシャンプー。
 優しい看護師のSさんがシャンプーの介助をしてくれて、頭を振動させずに髪を洗う方法を教えてくれた。
 まず、片手で頭の片側をしっかり押さえ、もう片方の手で、押さえていない方の髪を洗う。
 次に、手を替えて反対側を押さえ、今洗わなかった側を洗う。
 こうして常に片方の手で頭を固定して洗うようにすれば、頭は揺れない。

 なるほどねぇ。こういうやり方があったのか。N先生にも教えてあげなくちゃ。そうすれば、今度私のような患者がいても、4カ月もシャンプーしちゃダメなんて言わずに済む。

 というわけで、N先生が来たときに教えてあげたのだが、苦笑していたところを見ると、O先生や中井先生に言いつけた上に、追い討ちをかけてからかわれたと思ったのかもしれない。

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