コーヒーは反社会的な存在

コミュニケーションに関わる仕事をしていると、たとえば雑誌や漫画を読んだり、旅行したり、ゲームをしたり、友達とお茶したりといった、一般的には「余暇」とされる行動も、消費者の気持ちや市場を知るための行動で、これも仕事の一環だ、なんていう無茶な言い訳を脳内でしていることがあります。(ただの言い訳の場合がほとんですが)

でも、そんな言い訳も、あながちそれだけじゃない場面もあるなと思わせてくれる話が、今読んでいる「さよなら未来/若林恵」という本の中で紹介されていました。

深夜のファミレスで友達と延々与太話していると、

面白い地点に到達することがある。いままでお互いが考えてもみなかった新しい認識にたどり着くようなことがある。気になりつつも放置していた情報やアイデアが思わぬところで結びついたり、ぼんやりしていた企画がくっきりと像を結んだり。
多種多様な人がそこに寄り合って情報を交換する。そしてそれについて会話する。断片化されていた情報が整理された志向として編成される。支配する側からしてみれば都合の悪いことだ。
民衆はむしろ現実から目を背けて酩酊してくれていたほうがはるかに好都合。しかし、コーヒーは逆の作用をもたらす。コーヒーは、そういう意味において常に反社会的な存在であり続けてきた。
反社会的というのは、批判的ということだ。

という話でした。

自分の頭の中だけで考えている状態と、人と会話して言語化した状態では、同じ考えていることでもその精度が変わってくる実感は、私も何度か感じたことがあります。
人と話すことで自分の考えが整理され、物事をいろんな角度から、ときに批判的な角度から見るこもができるようになり、その精度が増していく。
精度が高まってくると、一気に実現に向けてのやるべきことが見えたり、実際の行動に移してみようという動きになったりします。他人に話したから後にひけない、という副作用もあるかもしれません。

少しこの本の言わんとしたことからは逸れるかもしれませんが、ただ友達とお茶してダラダラ時間を過ごしている、一見無駄にも思える時間が、実は頭の中のしばらく開けていない引き出しを開けて、新しい気づきを得るきっかけになると思うと、ちょっとサボりたいときの新たな口実をゲットしたな、という気持ちになったのでした。笑

「反社会的」というキーワードも結構インパクトがあるので、今度気分転換にコーヒーを買うときは、それまで考えていたことに対して、あえてすこし批判的な目線で見てみるきっかけだ、と考えてみても面白いかもしれません。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?