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0211_個

 昨日ね、と彼は口を開いた。
 まだ18時を回った程度の夕刻時なのに、すでに辺りに人はない。暗い夜道をただ、私と彼の2人だけで歩いていた。
 毎週日曜日の夜、仕事終わりのこの時間が、私はとても好きだった。何となく、『個』になれるようで安心する。
「アルバイトの斎藤さんの娘さんがね」
 彼はどこか思い出すように微笑んで仕事仲間の話を始めた。
 
 そんなことはどうでも良いのだった。

 私は彼が今、この瞬間、私だけに話しかけるその事実だけが好きだった。その内容がどうだってよく、話すテンポや声、距離もなんだっていい。この世界にこの瞬間、私は誰の子供でも誰の親でも、妻でもママ友でも同僚でもその他友人でもなく、ただ、『個』の私だけここにいる。それが嬉しい。
「ね、うそみたいな話だろう?」
「ほんとですね、それで、どうなったんですか」
 彼はまた嬉しそうに微笑み、話を続けた。私は、やっぱりどうなったかなどどうでもよく、ぼんやりと私の外側から私達2人を見るように感じていた。夫婦や恋人同士に見えるのだろうか、ああ、でもお互い年もそこそこ上の方だからもしかしたら不倫に思われるのかな。仕事の話をしているから無難に同僚かな。そのどれでもないのになぁ。
 思わず笑みがこぼれてしまう。
「ね、やっぱり面白いよね、さすが古賀君なんだよ」
 タイミングが良かったようで、リアクションとして捉えてくれた。それに、私はまた小さく笑う。
 私はパート、彼はどこかの会社の経営者(何の会社か、聞いたのだろうけれど覚えていない)で、帰り道にこの通りを使う。田舎だからか人通りもなく、毎週日曜日の決まった時間に顔を会わせることを続けていたら半年ほどしてなんとなしに一緒に通ることになった。
 私はどこの誰とも言っていない。
 彼は私を知らない。
 知らない私に楽しそうに話しかけてくれる。
 誰も知らない、私も分からない私がここにいる。

 何となく、それが私の大きな支えになっている。
 どこにも何にもたどり着けなくても、この通りで彼はいつもいてくれる。そんな風に思って、私は勝手に彼を拠り所にしている。
「じゃあ、また、来週に」
「はい、じゃあ、また来週に」

 小さく手を振り、別れる。
 横に並んで歩く時間はわずか10分。

 また来週。

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18時からの純文学
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★著者:あにぃ

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