0420_春が散り、花が咲く
彼女はショートカットで黒色、艶があり、くしゃっと癖付けているのか妙に似合っている。150㎝と少しくらいだろうか、身長は高くなく、小さな顔をしている。大きくない目と、小さくて高くはない鼻、薄目の唇には赤いリップが塗られていた。そして耳には大きめのヤモリのピアスが2つ。両耳にではなく、片耳、左側だけ2匹いる。一度だけそのヤモリの柄が見える距離にまで近づくことができ、見ると濃紺にオーロラのような輝きがあり、とてもきれいなものだった。
仮に彼女を『ヤモリの人』とする。
私はヤモリの人のことを知らない。
知らない割に風貌がわかるのはなぜか。私はヤモリの人を毎日見ているからであり、私のある場所に、いつも彼女がやってくる。
とある神社の境内の一角に、私はある。『いる』よりも『ある』の方が正しいだろう。私はここにある。私は一本の桜の木である。
そして恐らくヤモリの人はこの近くに住まいがあり、この近くに職場があるのだろうと推察する。
彼女は毎朝、私の元に来る。正確にはお参りをしてその帰り道に私の元で足を止める。そしてほんの少しだけ私に触れるのだった。私は、彼女がここに来て数分佇むその瞬間だけを知っている。それは雨の日も風の日も、暑い日も寒い日も、花が咲く日も蕾さえないその日でも、同じように来て、同じように私に触れるのだ。
今日の彼女は、とても爽やかな顔をしていた。もちろんいつの日の彼女もとても穏やかな表情で私に触れ、とても心地が良いのだが、今日はその上、清々しい顔をしていた。私に触れると、しばらくそのまま止まり、少しして私を軽やかに撫でる。
「少し、ここから離れますね」
そう、小さく呟くように言った。正直、私は驚いていた。
「ここに、ずっと私の願うものがあったのだけど、一度、それを手離してみようと思って、ここを離れることにしたの」
私は思わず、幹の内側を通る水のその粒子の一つ一つに念を込め、うねらせては腕を伸ばすようにして彼女に触れ返そうとしたが、寸でのところで止めた。私はただの木である。それを、一瞬忘れた。
「いつも、私を温かく包み込んでくれるような気がして、ここに通うことが私の習慣になっていたけれど、それも今日でおしまいにするわ」
そうして私をまた、優しく撫でて彼女は、ヤモリのその人は優しく笑った。赤い唇はいつも見るより艶やかである。
「今までありがとう、私を守っていてくれて。もう、守ることはしなくていい」
触れていた手は、やがて私の幹から離れた。
瞬間、私の全身にあるあらゆる細胞の一つ一つがざわめき立ち幹の中心に集まった。ぐわわわわと、それはものすごい勢いでエネルギーの塊となる。
「じゃあね」
ヤモリの人は翻り、私に背を向けた。強い風が吹き、彼女の髪を大きく揺らす。ヤモリの耳飾りが、一つその場に落ちた。
大きなエネルギーの塊となった私、いや、私たちは即座にそれを拾い上げて覆い隠し、まずはその場に留まった。彼女の去るその背中をしかと目に焼き付けていた。
彼女は知らない。願うことをやめたその瞬間から、願いが叶うということを。願うことを止めたそのぽっかりと空いた大きなスペースに、すぐにピタリと願いがはまる。だから、願いと言うものは本当は手離した方が良いのだ。
けれどそれはとても難しい。
それができると、彼女のようにとても爽やかに清々しい心地となるのだろう。
あなたが手離した大きなその願いは、私が届けよう。
私のこの全身をもって、あなたの元へ届けよう。
私に咲いた、ほんのり色づいたピンクの花たちはやがて、緑の葉っぱで埋め尽くされるだろう。その前に、今度は私があなたの元へいこう。
あなたの花を咲かせるために。
ああ、ほらもう、春が散る。
落としたヤモリと共に、あなたに向かう。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
18時からの純文学
★毎日18時に1000文字程度(2分程度で読了)の掌編純文学(もどき)をアップします。
★著者:あにぃ
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?