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(完)春やら夏やら⑧【連続短編小説】

※前回の「春やら夏やら⑦」はこちらから

 髪が遊ぶ、とはこういうことか。
 私の短髪たちは右へ左へ自由にゆらぐ。通勤の電車の揺れに合わせ、降り立つ駅のホームで行き交う人たちの早足と揃え、自由な向きで同じ方向を目指す彼らのように、ゆらゆらとそれは揺れている。

 方向が同じであってもそれがどこかは分からない。

 どんなに悩んでも、どんなに考えても、誰に問うても、すっきりと答えが出ないときには何か大きな変化の潮目にいると昔誰かに言われたことがある。
 はて、誰が言っていただろうか。
 大きな潮目の渦中にいると、いつだってそんなことには気づかない。

 吉岡が退職すると言った。
 私が結婚をお断りして二週間が経つ頃である。

「やりたいことを少し探したいと思ってね」

 珍しくランチに誘われてみたら、そう切り出された。近くの移動販売カーでランチボックスを買って公園で食べることにした。

「一緒に仕事をするのは今月までかな」

 妙にさっぱりとした顔で言うので、私はそうか、とだけ思った。何で?も、何があったの?もなく、ただ、そうかと思った。
 曇天の風はむわりと生ぬるい。吉岡は続ける。

「仕事、後任をお願いしたいのだけど」

 『潮目』は私の良く知る顔をして目の前にいた。

 それに気付いた瞬間、私の髪々はまたもふわふわと揺れ始めた。風がある。

「っていうか、ほんと思い切ったわね、ベリーショート」

「さすがに二週間も経てば見慣れたでしょう」

 私が風に遊ぶ髪を押さえつけながら言うと、吉岡は笑った。

「自分が一番慣れていないくせによく言うよ」

 確かに。オフィスの鏡の前を通るときに、一瞬そこに映った自分に未だ驚いている私である。

「本当ね。・・・・・・慣れるかな、そのうち」

 風が止み、ふよふよと踊る私の髪々はようやっと静かになる。

 私が彼女の後任になれるのか、私が私の思うようになれるのか、その思うようにとは一体何なのか。あの流れるような通勤ラッシュの同士たちは一体これからなにになるのか。彼はなれるのか。私はなれるのか。

 馴れるか慣れるか成れるのか。

 潮目に、私はそっと目を凝らす。

「なれるよ」

 吉岡の、その横顔を見る。彼女は、もしかしたら成れたのかもしれない。45歳の彼女が成れて、40歳になったばかりの私はまだ成れていないだけなのかもしれない。

 そんなことは分からないし、答えがあるのかも分からない。

 多分、そういうものなのだ。

「そういうものかな」

 私が言うと、彼女は笑った。

「うん、そういうもの」

 そういうものだと思い切ってしまえば、それ以上頭の中の大半を占めてまで考え続けなくていい。そういうものはこういうものだ。

「とりあえずあなたの歳までは頑張ってみるよ」

「その先も頑張ってよ、期待して任せたいんだから」

 私は食べ終えたランチボックスに蓋をした。

 暖かな風は生ぬるく、暑い。
 どこかで蝉が鳴き始めた。

 いまいちさわり心地の弱い髪をかきあげてみる。指の隙間にちくりと触る。

 吉岡には笑っておいた。

 そう言えば、私は歌手になりたかったのだ。ふと思う。なりたいと思った昔と、なりたかったなぁと思う今があり、その先の私はどうしていることだろう。
 短い髪を揺らしながら、いつか笑って歌でも歌っているかもしれない。
 きっと、そういうもの。

 ねぇ、私が歌ったら、どうかあなたも歌ってみてよ。歌声も聞こえなければ顔も見られないけれど。
 どこかで誰かが同じことをしていると思えば、今、この一瞬は少なくとも一人ではないでしょう。

 そうやって、一秒を一緒に紡いで生きてみてよ。

 そう言うものだと、笑って生きて。

                    完


☆2ヶ月に渡りご購読頂きありがとうございました。これにて『春やら夏やら』は終わります。
2022年8月はお休みをいただき、次回作は9月5日(月)12時に公開いたします。
引き続きよろしくお願いします。
本格的に夏の顔が見えてきました。
体調はいかがですか。無理していませんか。
どうぞ自分にゆるく、毎日をお過ごしください。
私も、そうします。
ではまた。

あにぃ


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