なんしょんな_俺

『なんしょんな!俺』(3) アニメーション制作会社、グループ・タックでの出会い / 川人憲治郎

※全て無料で読めますが、今後の活動費に当てさせて頂きますのでよろしければご購入も頂けますと嬉しいです。

 アニメ業界に入りこれまでに様々な方達と出会い、そしてその方たちの支えがあったからこそ、これまで業界内で生きてこられている分けです。感謝!感謝!でございます。そしてこれからも新しい人たちとの出会いがあり、また新たな世界が広がって行くことを切に望んで三回目はこれで筆を置きます。では。
 って!まだ始まったばかりやん!
 それに筆で書いていないし!むしろキーボードを叩きませんやろ!

 まぁ、てな分けで今回のテーマは『グループ・タックでの出会い』。
 そこで最初に書かないといけない人は、私が初めて制作進行を手掛けた『伊賀のカバ丸』で直属の上司(当時の肩書きは制作デスク)だったK.Mさん。彼がいて今の私があると言っても過言ではない!たぶん、きっと、そうかな。

 K.Mさんにはアニメの“いろは”からお酒の飲み方まで(笑)業界における基本マニュアルを教わりました。K.Mさんの自宅マンションでの飲み会などプライベートでもいろいろとお世話になりました。それに彼の自宅は鶯谷(※1)にあって、遊びに行くと鶯谷駅前で「シャッチョサン、シャッチョサン」とおじさん達に声をかけて車に乗せる客引きが大勢いました。その車がどこに向かうかというと、男が笑点するいやいや昇天する吉原(※2)がある分けです(笑)
 まぁ業界の駆け出し進行に声をかけてくる客引きがいるわけもなく、私もシャッチョサンと呼ばれるシャチョウに早くなりたいなぁ、なんて思ったりもしませんでしたからまぁいいか。

 K.Mさんには会社帰りに最寄駅の代々木駅前にあった「鳥たか」という焼き鳥屋によく連れていってもらいました。ここのツクネは絶品でして、肉団子ではなくて二本の串に肉をまとわせた五平餅タイプのツクネで、刻みネギが程よくブレンドされた絶品ツクネでした。あれから何十軒といろいろなお店のツクネを食べてきたけれど「鳥たか」のツクネに勝るツクネとは出会えていませんね。団子タイプのツクネは別に美味しいお店があります。
 知りたい方はぜひ雑誌「dancyu」(プレジデント社)の焼き鳥特集号をお取り寄せ下さい(笑)
 ちなみに思い出深きそのお店は、初めは地下の狭い場所でやっていたのですが、儲かって同じビルの2階に店舗を移し、店舗面積がほぼ倍以上になりました。でも二年目だったかな?店長が替わった時期から急に接客態度が悪くなり、味も落ちてしまい閉店しちゃいました。人の信用信頼を得るには時間がかかるけど、それらを無くすのは一瞬だと自分に言い聞かせましたです、ハイ。

 演出方面でお世話になった方だと、やはり杉井ギサブロー監督(※3)ですね。子どもの頃見ていて好きだった「どろろ」「悟空の大冒険」の杉井監督がグループ・タック所属だったことに驚きました。子供のころは誰が監督なんて気にせずにアニメのカッコよさやおもしろさだけで見ていましたが、この二作品は子供心にかなりインパクトがありました。特に「どろろ」の主人公のひとり百鬼丸は、両腕の中に日本刀が仕込まれているデザインがカッコいいんです。骨の代わりに日本刀が入っていて指先が動くなんて…あり得ないけど、そこは漫画だしアニメだし(笑)

 「どろろ」はすでにテレビ放送がカラーの時代(※4)に放送していたアニメで且つパイロットフィルム(※5)はカラーなのに、何故か放送はモノクロだったのですが、その理由を杉井監督に質問したところ、「日曜日のゴールデンタイムの放送でスポンサーが飲料メーカーだったんだよ。そこで家族で食卓を囲んでいる中、赤い血が飛び散るのは拙いって言われたから、じゃあ白黒ならいいよね」と言う理由で放送は白黒になったと教えてもらいました。
 あぁ~これがモノづくり四十八手の一手なんだなと感心しました。そんな四十八手ありませんけどね(笑)

 杉井監督とは「ナイン 完結編」(1984年)「タッチ 背番号のないエース」(1986年)「銀河鉄道の夜」(1985年)「紫式部 源氏物語」(1987年)で一緒に仕事をしましたが、B型ですっごく感性豊かな監督だったので、真面目な?A型の私は付いていくのが大変でした。

 あと決して忘れてはいけないのがグループ・タックの代表、田代敦巳社長です。社長だからもちろん会社の代表者ですが、現役の音響監督でもありました。そんな田代社長が代表作のひとつ「宇宙戦艦ヤマト」をやっていたことで、当時、新進気鋭の映像制作集団(むしろ駆け出しに近い無名の状態)だったGAINAXから「王立宇宙軍 オネアミスの翼」の音響監督のオファーを受けた時のエピソードです。

 田代社長は初めはそのオファーをずっと断り続けていたそうです。でも何度も何度も説得に訪れるGAINAXのスタッフを前に、オールラッシュ(完成した絵がつながった状態のフイルム)を観てから結論を出すと返答したそうです。 
 最終的にそれで仕事を受けることになるのですが、受けた理由が「オールラッシュを観ても内容がまったく分からない。でも何か新しい息吹を感じるから受けることにした」と言われたこと今でも忘れられません。

 田代社長が「王立宇宙軍」の音響監督を受けたからこそ、当時文芸作品などの映像化が多かったグループ・タックとスタッフがみな若く、時代に乗って勢いのあるGAINAXとの関係が出来、そこから私が初プロデュース作品として参加することになる「ふしぎの海のナディア」へとつながって行きます。
 そのあたりの経緯はまた次回。

(※1)東京都台東区の地名。ただ、行政区分上では鶯谷という地名は存在しない。駅東側にラブホテル街が立ち並ぶなど、江戸時代からの花街の名残を残している。
(※2)現在の東京都台東区千束四丁目、および三丁目の一部にあった地域の名称。江戸時代、幕府公認の遊郭であった“吉原遊廓”の名残を残し、今現在も日本最大の風俗街であることから、イメージのしやすさもあり、今でも“吉原”の名で呼ばれることが多い。
(※3)1940年生まれ、静岡県沼津市出身。東映動画(現・東映アニメーション)のアニメーターとしてキャリアをスタートさせる。その後、虫プロダクション、アートフレッシュ、グループ・タックを経る中で、アニメーション監督として数々の作品を手がける。代表作として『銀河鉄道の夜』(映画/1985年)、『タッチ』(映画・TV/1985-1987年)『ストリートファイターⅡ MOVIE』(映画/1994年)ほか多数。
(※4)日本でのカラーの本放送は1960年9月10日に開始。放送開始当時はカラーテレビは大変高価(当時の大卒の平均初任給3万円に対してカラーテレビは30万円という状況だった)であったために、一般への普及が進まなかったが、1964年の東京オリンピックを前にしたメーカー各社の宣伝、ならびに大量生産化による価格の低下によって爆発的に各家庭へ普及することになり、1973年には初めてカラーテレビの普及率が白黒テレビを上回ることになる。
(※5)公開予定のものに先んじて制作される映像の総称。テレビアニメの場合、スポンサーや広告代理店ならびに放送局への作品のセールスを目的として制作されることが多い。原則非公開のものではあるが、DVDやブルーレイなどに映像特典として収録されることもある。


【 川人憲治郎(かわんど けんじろう) プロフィール 】
 1961年4月1日生まれ。香川県丸亀市出身。
 株式会社グループ・タック、株式会社サテライトなどでアニメーションプロデューサーを歴任。
 ふしぎの海のナディア(1990年 - 1991年)、ヤダモン(1992年 - 1993年)、グラップラー刃牙(2001年1月 - 12月)、FAIRY TAIL(2009年 - 2013年)など、プロデュース作品多数。
 現在は、株式会社ディオメディア(http://www.diomedea.co.jp)にて制作部本部長を務める。無類の愛犬家。

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