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「誠実」のお守り的使用法——るな・シーズン「【治癒魔法】誠実な批評について」を読んで


拡散する「誠実」

発端となったあにもに氏のツイート群から遠く隔たり、「誠実」という言葉が飛び交う。しかし、「誠実」に込められた意味の質量は、はじめから失われるように定まっている。「誠実」という語が持ち出されるとき、その語に備わった意味内容の抽象性が、その語の肯定性と結託することで、あらゆる非難から使用者を防衛する。柳父章は『翻訳後成立事情』(1982)のなかで、ある言葉の意味が乏しいことで盛んに使用されるようになる道筋を簡明に示している。

そして、ことばは、いったんつくり出されると、意味の乏しいことばとしては扱われない。意味は、当然そこにあるはずのごとく扱われる。使っている当人はよく分からなくても、ことばじたいが深遠な意味を本来持っているかのごとくみなされる。分らないから、かえって乱用される。文脈の中に置かれたこういうことばは、他のことばとの具体的な脈略が欠けていても、抽象的な脈絡のままで使用されるのである。(p. 22)

柳父章『翻訳語成立事情』(1982)

こうした柳の分析はバズワードとして流通する「誠実」批判の理論的根拠となるだろうし、迫られた「誠実」と「冷笑」という二者択一の構図を拒否することもまた、有効な選択肢のひとつであることは確かだ。かといって、言語的な枠組みの中で発せられている「誠実」と「冷笑」の問題から目を逸らせば、残されるのは漠としたざわめきだけになることも認めなければならないだろう。誰かが言葉を固有に所有したり所有されたりするイメージを想定することもできないし、今までそのようなものとして存在した歴史もなかった。
 
るな・シーズンの論考「【治癒魔法】誠実な批評について」に含まれる主張は、上述した立場の対蹠点にある。この論考に私が抱いた違和は、あにもに氏による語法での「誠実」が併せ持つ性質の相容れなさを感知しながらも、るな・シーズンが「誠実」という言葉が孕む確固たる思想を最後まで手放していないことに存する、と思う。そして、当該論考を方位磁針として示したいことがある。批評という営みにおいて「誠実」であることの本当の意味を。

横滑りする「倫理」

「【治癒魔法】誠実な批評について」は、大きく二つのパートに分けることができる。あにもに氏のツイートの中から「誠実」という言葉が用いられている群を析出し、「誠実」が倫理の原理的正当性に依って立つことを論難するAパート、倫理学の諸概念を援用しつつ、『リコリコ』『治癒魔法の間違った使い方』といったアニメ作品を倫理的問題の例証として論じるBパートである。このAパートからBパートへの移行の際、取り扱われている「倫理」の内実に見過ごせない差異があることを指摘しておかなければならない。

批評自体の批評から倫理の批評へ。「誠実さ」もとい「倫理」の話を始めよう。近年のアニメにおいて、倫理観に優れた作品が高く評価されつつある。

「【治癒魔法】誠実な批評について」

この言述に明らかなように、「倫理」の所在が、あにもに氏が暗に示す批評と倫理の結託という記述から、作品世界内部で表明される倫理観の記述へと横滑りされている。「倫理」の外延が混同されているならば、批判の正当性が問いに付されるどころか、読みの内部に倫理を位置づけるあにもに氏の立場と、作品外部と交通可能な倫理を提出したるな・シーズンの立場との間に激しい対立を見出す以外の余地がなくなってしまう。

唐突だが、ここにフェミニズムとディコンストラクションを対比させて論じたロバート・スコールズの議論を重ね合わせることができる。スコールズは、読みそれ自体の倫理が存在しなければならず、加えて正しい読みが一つしか存在できないように形づくられたミラーのディコンストラクション的言説を痛烈に非難する。次の一節をそのまま彼らの対立に擬えてもいい。

明らかとなったように、我々はテクストにおける表象を、現実世界で見ることに関連づける必要がある。しかもテクスト的であるがゆえに政治的に、そして政治的であるがゆえに倫理的に関連づけねばならない。[……]我々は常に他者と結びついて、一つに織り合わされているのだ。言い換えれば、我々はテクスト化された存在なのである。そして、それゆえに政治的存在でもあるのだ。だからこそ、政治との関連を持たない読みの倫理などありえないのである。(p. 248)

ロバート・スコールズ『読みのプロトコル』高井宏子ほか訳(1991)

しかし、ここで強調しておきたいのは、当該論考での(意図的な)混同とそこから帰結する「倫理」の対立は問題の表層的な部分を占めるにとどまる。翻ってこのずれこそが、根底で変わらないひとつの事実を明らかにする。

AパートからBパートへの一見不可解な飛躍を架橋するものが、倫理という内主体的な行為に集約されるべきではない。より適切な仕方で言い直すと、AパートとBパートの間の相違、或いはあにもに氏とるな・シーズンの扱う「倫理」の相違は、ある特異な様態において、地続きに共有される場として機能する。作品に対して「誠実」であるという、さっきまで問題にしていたはずの比較的曖昧な語彙が、足元に寄せ返してくる。あにもに氏とるな・シーズンの照らし出した倫理が空疎な記号であることを避け、その領域を大きく拡大できるかどうかは、るな・シーズンが「誠実」さをどのように引き受け、構成することができるかにかかっていて、その試みは十分にうまくいっているように思う。

るな・シーズンは「誠実」が透明な実体、つまり単に指示的な記号ではないことを示すが、その言葉を放棄するように強いることはない。「批評的共生」という——それが何を指すのか明らかでないような、それでいて読み手の感情を喚起させるような——言葉を投げかけ、論考は終わる。「誠実」という語それ自体が担っている肯定的な意味を拡充し、ささやかな体系を描き出すことへの意志。

(擬似)伝統の方へ

こうして「誠実」という文字を連ねてきて、いつの間にか「誠実」という言葉の「深遠な意味」に引っ張られていたことに気づく。「誠実」という言葉が「冷笑」に対置される水準を、溢れ出るような仕方で超え出ている。

誠実。この言葉を真正面から声に出そうとすると、すごく無防備な感じがある。例えば、誰かが「誠実」と呟いたときに携えている感じは、あるアニメに対する切実な好きを伝達しようとするときの、あの軋みであるなら。

私たちの生の経験が複雑に入り組んだ状況の布置にあって、「誠実」という語彙が選び取られたことは、決してあにもに氏個人にのみ帰属させられないし、その言葉に集積したあの軋みの音を聞き取ることは、つまるところ江藤淳や吉本隆明ら文芸批評家の、あの多分に隠喩的で、曖昧で、魅力的な概念を思考することと同様に重要であると考える。学問研究の許容範囲の外へと追いやられてきた文芸批評家たちの言葉は、ある種の客観主義への異議申し立てを行なっていたのだし、私たちが世界を捉える枠組みに力強く「あてはめ」、「こじつけ」ていくようにして、強い共通感覚をもって選び取られた言葉でもあったはずだ。「父」「母」(江藤淳)であれ「関係の絶対性」(吉本隆明)であれ。「セカイ系」「日常系」と同じように。そのようなものとしての、「誠実」が含む真理。

先に挙げたロバート・スコールズは、T・S・エリオットを参照項として批評の位相を定める。曰く、優れたテクストに屈する「あの降伏の目眩く一瞬」の経験が、力と快楽の経済=テクスト的交換として通過され、その瞬間から批評へと移行がなされ始める。私はエリオットの別のテクストを参照しよう。

エリオットは、しばしば詩を批判する場合に持ち出される「伝統」という言葉から新しい意味を引き出す。前の世代に属する詩人の形式や規範に従うことのみを「伝統」だと考える限り、私たちは方向を見失ってしまう。私たちは過去の詩人や作品に関係づけられていて、間断なく過去と現在とで形成された同時的な秩序を再編していく、そのような遥かに広い意義をもつ言葉としての「伝統」が展望される。

伝統はまず第一に、二十五歳をすぎても詩人たることを続けたい人なら誰でもまあ欠くべからざるものといってよい歴史的意識を含んでいる、この歴史的意識は過去が過去としてあるばかりではなく、それが現在にもあるという感じ方を含んでいて、[……]この歴史的意識は一時的なものと永続的なものをいっしょに意識するもので、そのために作家が伝統的になれるのだ。(p. 9)

T・S・エリオット「伝統と個人の才能」八木貞幹訳(1938)

こうしたエリオットの考えは、日本の文芸批評の伝統に対してもある程度認められる。私たちがある対象を語ろうとするとき、字義通りで最も適合的に説明できる言葉から順に選ばれていくのではなくして、言葉の直感的なあの感じが、分け入ってきては表出され、同時に次々と別の意味をつくりだす。そのイメージを一言で言うなら、クリティカルワードということになるのかもしれない。幾人もの批評家たちが過去の批評家のクリティカルワードを引き受け、独自に発展させる。その言葉の反芻によって、遡行的に見出されたかつての感覚が今の感覚と一致させられ、永遠の主題に結びついていく、というように現れていると言ってもいい。

ただし、感覚の手触りに言葉の根拠をつなぎとめるよう仮構されたものである以上、日本の文芸批評のクリティカルワードの連なりに「伝統」という名を与えるには、無数の断線が走っている。だから、日本の文芸批評の辿ってきた/辿っていく道程を、詩人である秋山基夫の言葉を借りて「擬似伝統」という語に託してみたい。本当の伝統はどこにもなく、「眼に見えぬ感性の歴史」を感じとる過程だけがある。そうしてはじめて、私は「誠実」さを擁護することができる。


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