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偶然という価値

20年ぶりに地元都心部のファッションンビルに立ってきた。
週末に買い物に来ることがないので、あの頃の週末の賑わいが頭の片隅に感覚としてまだ残り続けている。
今回イベントを終えて、ここまで人出が少なくなっているとは思ってもいなかった。
たった20年で人の動きがここまで変わるものなのか。
わたしが都心部で働いていた時代は、インターネットが生活に密着していませんでしたから、買い物は実際の店舗に行くのが当たり前でした。
今の若い人からすればなんて不便なんだろうと思うに違いない。

あの頃は週末の14時を過ぎればたくさんのお客様で店内はすごい人でした。
年末やセール時期ともなれば、たかが40坪弱のお店に12、3人のスタッフがいた程です。
それだけのお客様がショッピングをしてくれていたわけですから、お昼ご飯のお店、駐車場なんかもすごい消費があったに違いありません。
なにしろ、動き回ることでの思いもよらぬ買い物、いわゆる衝動買い消費も馬鹿にならないほどだったことでしょう。
今の時代、それに変わるのがrecommend機能なんでしょうけど、わたしの感覚では的外れなものばかりでとてもその比ではありません。

もちろん、家の中にいてスマホ一つでショッピングからゲーム、デリバリーまでできれば便利で消費も簡単に促せます。
ただ、家の中で完結させてしまうことへのデメリットは計り知れないとも思うのです。
それは消費だけにとどまらず、あらゆる機会を失っているのでは?
家にいれば人にも会わず、面倒なコミュニケーションもいらない・・、そんないつかみた未来のカプセルのような生活ならない方がマシだ。

あの角を曲がったら新しいお店ができていた、桜が満開だった、昔の知り合いにばったり会った、ーーー、それでこそ培われる感性とういものがきっとあるはず。
この世の偶然はどんどん失われていくのかもしれない?
たまたま同じ店に何十年ぶりの知り合いがいたとして、お互いが気づく前に
「あちらの方はお知り合いじゃないですか」
って第三者(AI)に言われたくはない。
お互いで気づいた時の偶然への感動、すれ違いもそれはそれでまた良しだ。

この失ったものや感覚はもう戻ることはないでしょう。
それによって得たものが大きいと感じるのか、代償は大きかったと感じるのか・・。
この正解のない問いにどう答えるかで人生の価値を試されている気がする。

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