理不尽の清算

 地面を歩く蟻を拾い上げて、水の張ったバケツに沈めることに、抵抗なんて一つもなかった。捕まえたトンボの羽を毟ることも、野良猫を追いかけることも、近所の犬の尻尾を引っ張ることも、当然に湧き上がる欲求で、それを我慢する術を知らなければ我慢する必要があることすら、知らなかった。
 お腹が減ったらご飯を食べて、喉が乾いたら水を飲み、眠くなったら寝る。それらと同じような、当然の行いであったのだ。あの頃の俺にとっては、全く、それらと同じようなものであった。
 問題があったとするならば、俺がその後真っ当に成長して、それが罪だと理解したことだろう。成長は俺に罪という概念を与えはしたが、幼い俺が犯した罪の償い方までは教えてくれなかった。


 カーテンの隙間から射し込む日の光に怯えるように毛布にくるまって、夢と現実の狭間でぼんやりしていた男は、けたたましい機会音によって現実に引き戻され、目を開けた。叩きつけるように目覚ましを止め、デジタル時計の文字盤を睨み付けると、時刻は正午を指している。
 また、目が覚めてしまった。と尚も毛布にくるまっている男は絶望的な気持ちで視線をカーテンに移した。
「地獄だ」
 一日中稼働させていたクーラーによりひんやりと冷やされ、一筋の暖かな光が埃をきらきらと反射させる部屋の中で、敷きっぱなしの布団に寝転がっている彼は呟く。
「病院に行かなきゃ。病院に行かなきゃ、今日こそ。病院に行かなきゃ」
 腕を伸ばして、床に散乱した錠剤シートをかき集め、中身がないことを確認してうぐうと呻く。それからゴミ箱に向かって力任せに投げつけるが、一枚も入ることなく床に散らばり、「ぎい」と鳴いた。
 病院で貰った薬が底を尽き、眠っているのかただ横になっているのかわからない日々が続いていた。しかし診察の予約を入れても外に出ることが億劫で面倒で酷く煩わしくて恐ろしくて面倒で面倒で困難で厄介でたまらなかったのだ。目を覚まして、起き上がって、顔を洗って歯を磨いて服を着替えて髪を整えて靴を履いて……と考えるだけで発狂するのではないかと思われた。そんな重労働をするくらいならば眠れなくたっていいじゃないかと幾度となく病院へ行くことを諦めては、日没と共に後悔の念と、自己嫌悪に襲われる。ここ最近はそんな日々を繰り返していた。
 行くぞ。今日こそは、行くぞ。出るぞ、僕は、ここから出るぞ。
 照明から垂れる紐を見つめながら己を奮い立たせようと頑張っていると、ドアの向こうからドタドタと階段を登る足音が聞こえてきた。それから勢いよく部屋のドアが開かれ、乱立したペットボトルがいくつか弾き飛ばされた。
「てめぇ、いつまで寝てんだよ。今日病院行くっつってたろうが!」
 アラーム音よりも遥かに喧しい怒声をあげて男を蹴り飛ばしたのは、彼の姉であった。
「あー、あー! ペットボトルが」
「空んなったペットボトルいつまでも貯めてんじゃねえよ汚えな捨てろバカクーラー消せ」
「空じゃねえ、まだ残ってる。倒れちゃったじゃねえかよお、立てろよ」
「おめーが立てや。さっさと準備しろ、クーラー消せ」
 姉は彼の腹をリズミカルに踏みつけた。その度に彼はカエルのように不細工に喘ぐ。いつの間にか飼い犬が姉の側に大人しく座って、舌を出した阿呆のような面で姉と弟の攻防を見物していた。
「見せもんじゃねえぞ!!!」
「犬に当たんなや!!!」
男が啖呵を切ると、姉は男の顎を蹴り上げた。舌がぐじゃっと潰れる音がして、目の前に閃光が走った。犬がガフと吠えて部屋からさっさと出て行くのが見えた。
「あ、横谷くんが外で待ってるよ」
こんな暑い中、可哀想だね。もうデロデロに溶けてるよ、きっと。きゃっきゃっきゃ。
姉が高い声で笑いながら階段を駆け降りていく。そういうことは、先に言ってくれ。男は口の中に広がる血と一緒に、その言葉を飲み込む。
「横谷くん、こいつ起きないから、入ってきていいよ! ミノムシって見たことある? あれになってるから、稔。ミノルだけにっつって」
 姉は玄関先で大笑いしながら小粋なジョークを飛ばし、そのまま家を出たようだった。あの女は頭がおかしいのではないかと、稔は自分のことを棚にあげて考えた。今度はとんとんと控えめな足音が近づいてきて、見慣れた顔がドアからこちらを覗き込む。
「あ、本当だ。ミノムシだ」
「虫じゃない!!!」
 稔の怒声に反応して、別室に居る犬がバウと吠えた。横谷はすっかり慣れた調子で「じゃあ、出てこいよ。暑いだろ」と笑顔を浮かべた。抗いようのない絶望的な倦怠感はいつの間にか薄れていた。稔はのそのそと毛布の中から這い出して、床に手をついて重たい体を起こす。
「おはよう。もう昼だぜ」
 横谷がカーテンを開け、どんよりと空気の濁っていた部屋は一瞬で夏の日差しに満たされる。その景色を拒絶するように、まぶたが痙攣した。
「猛暑というやつだ、今日は。交通整備のおっさんなんか、あと十分でもしたら死ぬんじゃないかと思うぜ。あいつらの今日のラッキーアイテムは、絶対にポカリスウェットだな」
「おっさんの命がけの交通整備の日給は、どんなもんなんだろうね」
「お役所さんが涼しい部屋でパソコンを眺めている一時間と同じぐらいでないか」
 窓辺に立った横谷が首を捻って外の景色に目を向けた。母の洗濯したシャツに袖を通した稔は、気分が沈んでいくのがわかった。中学時代のジャージから外行き用のジャージに履き替え、財布をポケットに押し込む。
「病院に行くんだろう。お姉さんが言ってた」
「そうなんだ、せっかく来てもらったのに悪いけど」
「じゃあ、俺も行くよ」
 お前一人で行ったら最後、アスファルトに張り付いているミミズみたいに干からびちまうよ。横谷は言って、いつの間にか手に持っていたリモコンでクーラーを切った。


 恐ろしいほど晴れ渡る青空に、稔は目眩を覚える。直視していると目が潰れるのではないかと思われて目を細めたが、すぐにそれもいいかもしれないと思い直した。
「おい、何をお天道様にガン飛ばしてるんだ」
 横谷が実の頼りない背中を叩く。「目が焼けるぜ」
「焼こうとしてるんだ」
「病院の予約は何時だ」
「十二時四十五分」
「もうすぐじゃないか。ほら行こう、焼くのはその後だ」
「肌を黒くしたがる女たちの気持ちが少しわかった気がする」
「そうか。世界平和に一歩近づいたな」
 二人は、他愛のない会話を交わしながら車通りの少ないアスファルトを歩き出した。稔がサンダルを引き摺る音と、横谷のスニーカーが砂利を踏む音が、規則的に続く。赤い棒を握りしめている中年の交通整備員が二人をチラリと見たが、すぐに目を逸らした。
「付き合わせてごめんね」
「気にするなよ。いきなり押しかけた俺が悪いんだし」
 横谷が嫌味なく言って笑った。脱色された髪が、日に照らされて赤く燃えているようだった。
「僕に会いにきてくれる奴なんて、横谷ぐらいだ」
 稔は、熱を持ち始めた皮膚を無意味にぺたぺたと触る。暫くぶりの日光浴に身体を巡る血液や細胞なんかが大喜びして走り回っているような感じがした。気持ちがいいと思った。でも、きっと一人だったら、自分はこの無遠慮に照りつける陽射しに耐えられはせずに、ぺしゃんこになっていただろう。
「友達だからな」
 稔と比べると幾らか日に焼けている横谷は、恥ずかしげもなくそう言った。稔は自分の中の血管の在処をはっきりと感じた。
「横谷がいなかったら、今頃孤独で気が狂っていたかもしれない」
「愉快な姉ちゃんがいるじゃないか」
「あいつはもう狂ってるんだよ」
 横谷が子供のように笑ったので、稔も不器用に笑う。


「お前って、何で高橋稔と仲良いの」
 終電を待つ居酒屋の座敷。話題も尽きて時間を持て余した相田はふと、長い間の疑問を横谷にぶつけてみた。氷が溶けて随分薄くなったウーロン杯を飲み干した横谷がグラスを置く。
「友達だから」
「だから、何で友達なんだよ」
 横谷は相田の言葉を遮って店員を呼び、愛想良くハイボールを頼んだ。相田は緑茶を頼む。
 店員が去ってから、再び横谷に向き直って「一緒に居て楽しいのか?」と追撃をしてみる。
「楽しいとか楽しくないとか、考えたことがないな」
 は? と相田は不満げな声を漏らした。
「じゃあ、何で友達なんだよ。同じ大学ってんならまだわかるけど、そうでもない」
 高校の同級生らの中では、未だに彼らの仲の良さを不思議がる者が多数いた。当時から、横谷が稔に構うことを疑問に思っていたのだが、卒業して暫く経ってもその関係が続いているのは奇怪ですらあった。片や、友人も多く忙しい大学生で、もう一方は無職の引き篭もりなのだ。
 相田としては、相当相性が良いのだろうと思っていたのだが、どうやらそういう訳でもないようだ。
「言い方は悪いけど、お前に何の得もないだろ。あいつ、元々暗い奴だったけど、今は精神病んで引きこもってんだろ?」
 酒が回りに回っていた相田は、そう口に出した直後に酷い失言をしたことに気が付いた。が、横谷は特に怒るでも悲しむでもなく言う。
「清算なんだよ、俺にとっては」
「清算?」
 相田は、駅の改札機の近くにある精算機を思い浮かべていたが、横谷の次の言葉でその想像は吹っ飛んだ。
「俺、小学生の時に稔のことをいじめてたんだ」
 え。と相田が反応する前に店員が二つのグラスを運んできて、テーブルに乱暴に置いた。横谷はまたもや愛想良く店員に礼を言ってハイボールを一口飲み、続ける。
「小二の時だったかな、同じクラスになってさ。あいつ、弱っちくて、鈍くて、見てるだけでイライラしてさあ。だから、自然と、本当に自然と、俺も俺の友達もみんな稔をからかったり、物を隠したりし始めたんだ。だんだん酷くなってな、トイレに閉じ込めたり、蹴ったり殴ったり、色々。毎日飽きずにやってた」
 横谷は他人事のように淡々と喋る。ドラマのあらすじを説明しているかのようだった。
「当然だと思ってたんだ、不愉快なやつをいじめるのなんて。だって皆を不愉快にさせる奴が悪いだろ。空気を乱すから叩かれるんだ。外れ者を懲らしめて何が悪いんだって思ってたんだ。いや、実際そこまで考えてなかったかな。本能ってやつかもしれないな、子供の。弱い奴を淘汰しようとする本能。
でも、中学に上がった頃だったかな。気づいたんだ。そういうことをしてはいけないんだって。
そんな人道に反することをしたら、いけないんだって、少しずつわかってきたんだよ。稔だって俺と同じ人間で、傷つくんだ。一生消えない傷になるんだ。俺は、稔に取り返しのつかないことをしてしまったんだって、じわじわとわかっていったんだ。完全に理解した時、恐ろしくて震えたよ」
 横谷の表情はどんどん曇っていった。相田はしかし、横谷の表情が曇るにつれて、彼への恐怖心なのか嫌悪感なのか判断のつかない感情が増していくのがわかった。
「それで、決めたんだ。一生を懸けて償っていこうって。だから高校では、稔の一番の友達になった。稔を最優先にした。それでもやっぱり、稔の負った傷はだいぶ深くて、高校生活もあまり上手くは送れなかったな。それで進学も就職もできなくて、心もダメになっちまったんだ。ナイーブなんだろうな。人が怖いんだって、いつだか言ってたな。あれはきっと、俺たちのせいだ」
 横谷が再びハイボールに口をつけた。相田は、横谷の説明が終わったのだと理解して、慎重に言葉を選ぶ。酔いはすっかり冷めていた。聞きたいことは色々とあったが、きっと納得する答えが返ってくることはないだろうと理解していたため、一つだけ口に出した。
「お前のその償いは、どうなったら終わったと言えるんだ」
 横谷は冷たくなったポテトを手で掴み、口に放りこんだ。それを呑気に咀嚼しながら答える。
「稔が社会に出て、独り立ちした時じゃないか。まあ、現状、絶望的だけどな」
「じゃあ、お前はその日が来るまでずっと高橋の家に通い続けるのかよ」
「そのつもりだよ。だって稔が自殺でもしたら、後味が悪いだろ」


 横谷と居酒屋を出て最寄り駅で別れてから、数日が経った。あれ以来、横谷とは顔を合わせていないし、連絡も取っていない。避けているつもりはないが、会おうという気にはなれなかった。
 そんな折、何気なく立ち寄ったコンビニで高橋稔を見かけ、相田は思わず「あ」と声を出した。
 稔の方も相田のことを覚えていたようで会釈をしたが、在学中も何度か話したというだけで他人も同然だったため、気まずい空気が流れる。
「元気?」
 相田は苦し紛れにそう絞り出した。元気でないことはよく知っていた。
「あ、うん。おかげさまで」
 稔も稔で、よくわからない返事をしてきた。相田は今すぐ適当な挨拶をしてこの場を離れたがったが、しかし、ある好奇心が頭を擡げ始めた。
「横谷と、まだ仲良いんだってな」
 それは、限りなく危険な好奇心だった。稔は目を泳がせながら、それに答える。
「ああ、一昨日も、会ったよ」
「仲良いよな、お前らって」
 稔は狼狽えつつも頷いた。
「うん、唯一の友達なんだ」
 でも、横谷にとっては、ただの贖罪なんだぜ。
 相田はその言葉を、すんでのところで喉奥へと押し戻した。
「そっか。悪いな、買い物の邪魔して」
「あ、いや」
「じゃあ、また」
「うん、じゃあ……」
 稔はぎこちなく会釈をして、背を向けた。相田はぼんやりその姿を眺めていたが、やがて正気を取り戻したように店を出た。
 自動ドアをくぐると、まとわりつくような熱気に襲われる。相田は自宅へと歩みを進めながら、二度と稔に鉢合わせないことを祈った。


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