犬喰い

自分が最悪で最低な時は、好きな人たちに会いたくない。好きな人たちのことを好きなままでいられなくなってしまいそうになるし、そうなったら、世界で一番嫌いな、男のくせに万年生理のヒステリー女みたいな性格をしている上司のことよりも嫌いな自分自身のことを、今よりももっと嫌いになってしまうだろうからだ。だから、私は、自分が最悪で最低なまるで腐った洋梨みたいに成り下がった時は、耳の穴にセメントでも詰め込んだつもりになって無線イヤホンを詰め込み、目を潰したつもりになって薄いタオルで目を覆ってしまう。耳が不自由な人や目の見えない人に知られたら、勿体無いと怒られるかもしれないから、隠れるみたいに、自分の部屋でひっそりと、やる。
「とか言いながらアタシには会いに来るじゃんかよ」
「今回はそっちから来たんでしょうが」
 私は、死人の如く顔にかけていた白いタオルを仕方なく剥がして、藤田に言葉を返す。すると彼女はまんざらでもないといった顔をして、小さなローテーブルにのっているミカンの皮を剥きながら言う。
「だって、電話越しにあんまりにも元気がないもんだから。心配するでしょうよ、友達として」
「元カノとしても?」
 私が間髪入れずにそう付け加えると、藤田はミカンを咀嚼しながらニヤと口角を持ち上げた。私もそれと同じ顔をする。
 藤田とは、高校生の頃、一年くらい付き合っていた。私は人と付き合うのが初めてで、藤田は三人目くらいだと言った。
「たまに、戻りたくなる時があるよ」
 自分で言いながら、ちょっと嘘くさいと思った。でも、半分くらいは本心だと言えよう。
「えー、やだよあんな、閉塞的な田舎の高校に戻んの」
「でも、楽しかったでしょ」
「あの頃だから楽しかっただけじゃない? 今戻っても、多分、楽しいとは思えないよ」
 藤田の言うことはもっともだった。もう10年も前の私たちは、まだろくにお酒の味も知らなくて、お金もなく、セックスやギャンブルの快感も知らなかった。
 知らない方が良かったような気がする。でもそういうことを言うと、子供みたいで恥ずかしいから、私は言わない。
 高校生の私たちは、毎日、色んなことを喋った。家族の笑える話やムカつく話、読んでいる漫画の話、友達の可笑しい話や腹が立った話、勉強の話。お気に入りのCDを貸したり、借りたりしたし、放課後は一緒に帰った。たまに寄り道をして、寂れた商店街でアイスクリームを買って食べたり、人目を憚って抱き合ったり、キスをしたりした。私は藤田のことが大好きで、愛していたけど、別れたらそれはそれで生きていけたし、その後もっと好きになった人と付き合ったり、別れたりして、大人になった。
「それで、今回は何をそんなに落ち込んでるわけ?」
「別に何があったわけでもないよ。ただ疲れてるの、もう。全部に」
「ふーん」
 可哀想にねえ。藤田は床に転がる私の頭を犬にでもするように乱暴に撫でる。私は心地の良さを覚えるけど、それ以上の感情は湧かない。私は今も藤田のことが好きだけど、それは高校生の頃のような、どうしようもない愛を孕んではいない。
「お腹すいてない?」
 藤田が言うので、私は「すいた」と答える。それを受けて、藤田は慣れたように小さなお皿を取り出して、床に置く。それからテーブルの上のコンビーフの缶詰を開けて、中身をお皿にあける。
「ほら、食べな」
 私は寝っ転がっていた身体を起こして、床に手をついた。深さが5センチほどある犬用のお皿には、缶の形に固められたコンビーフが置かれている。私はまずその角に歯を立てて、綺麗に整えられた肉の塊を崩していく。少しパサパサしているけど、悪くない味だった。
 ほぐれてきた肉は、皿の底に仕切りのように配置されている突起物の隙間に落ちていく。この突起物は、犬が勢い余って餌を喰らった時の誤嚥などを防ぐのが目的なのだと以前藤田が説明していた。私は犬ではないので、その突起がただただ邪魔である。しかし手を使うことは許されていないし、私も望んでいないので、口だけを使って丁寧に餌を食べていく。
「美味しい?」
「そんなに悪くはないよ」
「犬が喋んな」
 藤田が言った。でも藤田が怒っているわけではないことを私は知っていた。藤田が攻撃的な言葉を使うことは本来、滅多にない。攻撃的になるのは、いつも私の方だ。
 藤田はテーブルの上でミカンの白い筋を剥がしては、口に運んでいる。私はそれを横目に見ながら、床に這いつくばってコンビーフを食べている。高校生の私たちは、毎日机をくっつけて、母親が作ってくれたお弁当を一緒に食べていた。時々おかずを交換した。お弁当を食べることよりも、おしゃべりに夢中になった。
 私はたまらなく安心していた。
「アタシは、コンビーフって、食べたことないんだよね」
 藤田がミカンを頬張りながら言う。今度買ってみようかな。それから立ち上がって、流し台の方へ行く。
「待て」
 戻ってきた藤田に言われて顔を上げると、水を注いだグラスを持っていた。彼女はまだコンビーフが残っている皿にグラスの中身を注ぎ、「喉が渇くでしょ」と笑った。
 私は水道水と細かい肉、それから肉汁の混ざり合った液体を舌の先でぺろぺろと舐める。固形物を食べるよりも、液体を掬い上げる方がはるかに難易度が高いのだ。
 藤田は定位置に戻り、缶ビールを開けた。私が買っておいたものだ。
 皿の中の水は、全然減らない。
 私は安心した。
 藤田のお弁当は、いつも冷凍パスタが入っていた。私のお弁当には、いつもタコさんウインナーが入っていた。
 藤田はミカンを食べながら、テレビを見ていた。水はようやく三分の二ぐらいに減っていた。
 私と藤田はもう、机をくっつけてお弁当を食べるような歳ではない。私の家にも藤田の家にもお弁当箱なんて一つも置いていないし、お弁当のおかず用の冷凍食品を買うこともない。
 私は安心した。安心して涙が出そうだった。同時にたまらなく死にたくなったが、窓から差し込む光がとても暖かくて綺麗だったから、やがてどうでもよくなった。
 

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