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大学時代に後悔はあるか。

この時期になると「新入生に伝えたいこと」みたいなブログやnote、ツイートがたくさん目立ちます。それを目にするたびに、大学卒業から1年を迎えた自分の心の中でざわざわとした感情が胸を焦がします。自分は大学生活をやり切れたのか、と。

特にざわつかせるのが「いろいろな授業をとったほうがいい」という話。
自分は理系にもかかわらず、学部1年の時に参加した海外インターンの影響をバリバリに受け、初心を忘れてビジネスの世界を志したがゆえに必要最低限の単位数をギリギリの成績で履修して課外活動に力を入れる大学生活を3年生まで送りました。3年生後期からは「ガチの外部大学院に研究をするために進学したい」と進路変更したので研究に力を注ぎました。

そして知的な研究の世界に身を置くほどに、本を読むほどに、大学時代にもっと文系の授業も興味のままに受けていればよかったという後悔が生まれてきます。卒業要件の関係で心理学やゲーム理論などいくつかの文系科目はとりましたが、今思えば物足りません。営業インターンがあるから、研究室が別のキャンパスにあるから、と理由をつけて履修しませんでした。

では大学生活をやり直して違う現在にたどり着きたいのかと問われると、唸ってしばらく考えるけれど、答えは否です。今つかみ取った現実に満足感を得ているからこそ、あの道で間違ってなかったと思えています。

元々は保守的で、外に出ることを怖がるのが自分の基本的な性格です。(その性格は今でもそれは残っています。)
でも、そんな自分が海外一人旅を敢行したり、万年文化部だった自分が練習を重ね、研究室を休んでホノルルマラソンを完走したことや、安定した実家を出て住み込みのリゾートバイトに従事したことなどはそうした学外の環境に飛び出た経験やそこで出会った友人たちの影響が大きいです。

そうして枠を飛び出した経験は今でも自分の中で”輝かしい記憶”として残りました(もちろん、輝かしくともそれにすがってこれから先を投げ出すつもりはありません)。

また輝かしいとまではいかなくても、不仲だった父と2人で台湾旅行に出かけたこと、人に手を差し伸べる前に自分を満たす必要があることを学んだこと、ボロボロになりながら”働き方”について考えたことは人生の幅を間違いなく広げてくれました。

それに、そうして”外”に出た経験と自信や悩んだことがなければ、就活する道から外れ、博士課程まで5年一貫制の大学院に進学して南極を目指すという選択すら怖くてできていなかったかもしれません。

だからこそいろいろな授業を受けなかったことに後悔はあるものの、今の自分の人生に満足をしています。それに、あの大学生活の中でほかの科目を盛り込んでいたら間違いなく心か身体を壊していたに違いありません(実際言語学の授業は身体を守るために出席をやめたため「出席不足」と成績表に記載されてます)。

ちなみに、こうやって後悔に胸を焦がされど、人生をやり直す機会があっても別の選択肢を選ぶことはないだろうと心から思えたのも学外に飛び出した先で出逢った友人のおかげです。

世間の、誰かは、大学生活は色々な授業を取り切ることで”その人の大学生活”を「やり切った」のでしょう。一方、自分は学外活動に力を入れつつも、ちょっと文系科目を履修して、研究に時間を注ぐことで”自分の大学生活”を「やり切った」のだと思います。そこには貴賤も勝ち負けもなく、その人の大学生活をやり切ったという事実だけが残ります。

どんな道を選んでも、選ばなかった道に後悔は生じるもの。だったら、満足できる現在地にたどり着けたことだけ覚えておけばいいのかもしれません。

頂いたサポートは、南極の植物を研究するために進学する大学院の学費や生活費に使わせていただきます。