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円満な人間関係の秘訣:「相互投影」から「相互理解」へ

■よくある人間関係上のトラブル

ここに一組の夫婦がいるとします。
妻は、ガレージがちらかっているのが気になっています。でも、ガレージの片づけは夫の仕事なので、見て見ぬフリをしています。
夫も、ガレージがちらかっているのが気になっていて、片付けが自分の仕事だという自覚もあります。しかし、なぜか手が付けられずにいます。
やがて夫は、ガレージをさっさと片づけるよう妻から強いプレッシャーをかけられていると感じ始めます。そして、なぜかそのプレッシャーに対して強い抵抗感も覚えています。
そんなとき、妻が我慢の限界に達し、ついつい強い口調で「あなた、ガレージがずいぶんちらかってるわよ。さっさと片づけなさいよ!」と言ったとします。
夫は反発します。
「わかってるよ、うるせーな! 何でお前にそんなこと言われなきゃいけないんだよ!」
こうなると売り言葉に買い言葉です。ついに夫婦喧嘩が始まります。
夫は、「ほら、やっぱりね、こいつは何かとオレにプレッシャーをかけてくる」と、自分の抵抗感をエスカレートさせ、妻は「ほら、やっぱりね、私が何か一言言うと、夫は必ず逆ギレする!」と、これまた夫の横暴さに不満を募らせます。もはや事態はガレージどころではなくなります。

どんな間柄にも、日常的によくある人間関係上のトラブルですが、なぜこのようなことが起きてしまうのでしょう。また、それにどう対処したらいいのでしょう。

■誰しも備わっている「仮面」と「影」

何が人間の性格や行動を決定するのか、その基盤については、心理学者によって学説がまちまちです。しかしそれでも、すべての学説に共通する次のような基本的前提があります。

「人間は自己のある側面を自覚しておらず、その側面から疎外されている」
「人間は自己のある側面を意識しておらず、その側面ともつれたコミュニケーションの関係にある」

心理学的には、人が普段意識している自分の側面を「仮面」あるいは「ペルソナ」と言います。そして、その真逆の自分で、真逆だからこそ意識できていない(無意識化している)自分の側面を「影」あるいは「シャドー」と言います。
ごく簡単に言うと、「私は○○さんが好き」という気持ちが「仮面」としてあるなら、「私は○○さんが嫌い」が「影」としてあると考えてみればいいのです。もしあなたが「そんなバカな話はない」と激しい抵抗感を覚えるなら、「私は○○さんが嫌い」という気持ちは、間違いなくあなたの「影」です。そして、その「影」の正体とは、「私は自分が嫌い」ということなのです。
皮肉な話ですが、「私は○○さんの好ましい部分もそうでない部分も等分に認めている」となったとき、初めて○○さんを好きでいられるのです。
それはまさに、「私は自分の好ましい部分もそうでない部分も等分に認めている」ということです。このような認識に至ったとき、人は真の意味で自己成長へと向かえるのです。

■人は自分の「影」と「シャドーボクシング」したがる

「仮面」と「影」は、いわば地球の昼と夜(太陽が当たっている半球と当たっていない半球)の関係のようなものです。そして、人は明るい昼の部分だけが「自分」であると思い込んでいるのです。しかし、もちろん反対側も地球です。
一般に、「仮面」の部分は常識的で、道徳的で、理にかなっています。だからこそ人は、そういう部分だけが自分のすべてだと思いたがるのです。
一方、「影」の部分は、非常識で非倫理的で反社会的だったりします。つまり、自分が意識的に欲するもの、好きなもの、感じるもの、求めるもの、意図するもの、信じるものの正反対が「影」であると思ってまず間違いありません。だからこそ人は、そういう自分の側面を打ち消し、ないかのごとくにしたがるのです。
その結果人は、自分の「影」を自分から追い出し、自分の内側からではなく、あたかも外界(物や他者)から自分に向けられているかのように感じてしまうのです。これが「影の投影」と呼ばれる現象です。非常識で非倫理的で反社会的だと思える「何か」が自分に向かってくると感じるわけですから、それは抵抗感を抱くに違いありません。そうなると、もともとは自分の一部である「何か」に対しての「反撃」と称して、人はシャドーボクシングを始めます。もちろんそれは報われない反撃です。いや、報われないどころか、投影相手にとってはいい迷惑で、エスカレートすれば加害者・被害者の関係になりかねません。

■「相互投影」は簡単にエスカレートする

先ほどの夫婦の例に戻りましょう。
夫は、「ガレージは暇なときに片づければいい」という仮面の裏に「さっさとガレージを片づけるべきだ」という影を持っています。しかし「ガレージの片づけは夫(自分)の仕事である」という概念を、いくぶん非倫理的と感じているのかもしれません。そこで、そういう概念を妻に投影し、妻からガレージを片づけるよう強くプレッシャーをかけられていると感じているわけです。しかし、実際には夫は、自分で自分にプレッシャーをかけているのです。つまり、夫は誰よりも自分でガレージを片づけたいと思っているわけです。
一方、妻の方は、「ガレージの片づけは夫の仕事である」という仮面の裏に「夫の代わりに自分がガレージを片づけたい」という影を持っているのです。しかし「夫を甘やかすことは非倫理的である(夫に尽くす自分がイヤ)」という思いがどこかにあるのかもしれません。そこで、「自分がガレージを片づけたい」という欲求を夫に投影し、ぐずぐずしている夫にイライラを募らせているわけです。つまり妙な固定観念にとらわれて行動できず、ぐずぐずしているのは妻の方なのです。
ここで注目すべき点は、どちらも「自分でさっさとガレージを片づけたい」という共通の欲求を持っていながら、夫は「自分で自分の背中を押していることに気づかない」、妻は「自分で自分の欲求にブレーキをかけていることに気づかない」という具合に、それぞれ真反対の理由で相手を責めている、という点です。
これを「相互投影」と言います。この相互投影こそ、人間関係がこじれてしまう原因であり、親しい間柄であればあるほど、年中起きていると思ってまず間違いありません。しかも、やっかいなことに、このこじれはどんどんエスカレートします。しまいに、夫は「妻は何かと私にプレッシャーをかけてくる。そんなのはもううんざりだ」となり、妻は「夫はまったく私の言うことを聞かない。私の方が絶対正しいのに」となるかもしれません。
「えっ? ガレージがちらかっているだけで、そんなに行き違うの?」
そうなんです。相互投影は、二人そろってのシャドーボクシングであり、二人そろって「悪いのは相手の方だ」になっているので、際限がないのです。

■「影の投影」にどう対処するか

こういう場合、どうしたらいいのでしょう。
まず、「仮面」とは真逆の「影」が自分にあることを認めることです。
そうすれば、夫は「妻からのプレッシャーだと思っていたが、自分で自分にプレッシャーをかけていたのだ」と気づき、妻は「夫が片づけるべきだと思っていたが、自分が誰よりも片づけたがっていたのだ」と気づきます。
こうした自覚が持てれば、どう行動するかは簡単です。
夫は、さっさと自分でガレージを片づけることもできるし、負担が大きいなら、妻に「ちょっと手伝ってくれる?」と頼むこともできます。
妻は、夫を待たずにさっさと自分で片づけることもできるし、夫に「一人で片づけるのが大変なら、手伝ってあげましょうか?」と提案することもできます。
こうした「相互理解」が積み重なれば、仲たがいどころか、夫婦の絆はより深まるのではないでしょうか。

■葛藤を乗り越えることは「小さな自己の死」

ここで、もう一歩突っ込んだお話しをしておきましょう。
「影の投影」は、自分がどんな「影」を誰に投影しているかを自覚できれば、比較的簡単に解消できるかもしれません。
ただ、この夫婦の例で言えば、夫が「何でもかんでもいっぺんにはできない」と「何でも率先して自分でやりたい」の間の葛藤を乗り越えること、妻が「夫にも私にも役割分担がある」と「夫のために何でもやってあげたい」の間の葛藤を乗り越えることは、それほどたやすいことではありません。自分がどのような性格を持って生まれてきたのか、親兄弟や学校の先生といった成育環境から、どのような影響を受けてきたのか(何を鵜呑みにし、何に反発したのか)といったことにも関係してくるからです。
そうしたことを乗り越え、新しいものの考え方、価値観・世界観を手に入れるということは、手放すべき自分の旧いアイデンティティにおいて、部分的にではあれ、いったん「死んでみせる」ということだからです。言い換えるなら、小さな自己の死を経験することで、一回り大きな自己へと生まれ変わる、ということです。
それは恐怖を伴い、勇気のいることですが、それができなければ、人は一皮むけて成長することができないのです。
いずれにしろ、外部に投影している自分の「影」を、再び自分の内側に戻す作業(投影した影の再統合)は、人が成長するうえで欠かせない作業です。

この「投影した影の再統合」の具体的なやり方について、2月27日のワークショップで詳しくご説明いたします。

「人間関係に気づきをもたらすワーク」
2月27日栃木県那須塩原市にて開催

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