アメカジは果たしてリラックスできる服装か

アメカジは「自由」や「リラックス」というイメージと常にセットで語られます。心地よく、制約と無縁で健康な服装であるというイメージを求めて、アメカジ野郎はどこでもアメカジを着ます。それは彼らの勝手なのですが、アメカジは彼らにとって本当にリラックスした服装でしょうか。

ゆったりとして通気性のいいアメカジがリラックスした服装であることは間違いないのですが、それを着ているアメカジ野郎はどれくらいリラックスしているのか、非常に疑問です。

彼らにとって価値のあるジーンズやスニーカー、スウェットを身に着けているとき、彼らは出来ないことは増え、できることは減っていませんでしょうか。

ジーンズやスニーカーで武装したアメカジ野郎と出かけて、彼らが海や山で思う存分遊べなかったり、やたらと服の埃を払ったりしていることに覚えがありませんか?私はあります。そして、アメカジ野郎が何を考えているのかその都度想像してきました。

これをお読みの皆様も想像がついているかと思いますが、彼らはどこにいようが何をしていようが、常に「服が汚れる」ことが怖いのです。その度合いの異常さもですが、そもそも「汚れてもいい服」であったはずのジーンズやスウェット、スニーカーが汚れることを異常に怖がるアメカジ野郎の理屈は非常に歪んでいるとしか思えません。

その歪みについてもある程度自分で想像してみたのですが、アメカジ野郎はおそらくは「過去」への異常な憧憬に囚われているのだと考えました。アメカジ野郎が好む服装は全て過去を切り取ってそのまま現在この瞬間に貼り付けたようなものばかりです。

「過去」とは一般的に「変えられないもの」です。つまり、「確定したもの」でもあります。前回お話した通り、アメカジ野郎が大好きな「他人からの評価が確定しているから安心して着られる服」と繋がります。それらを都合のよい言葉で言えば「ヴィンテージ」と言えるでしょう。

過去かっこよかった服が、自分の行動で未来に変化してしまうなら、彼らは未来より過去が大切です。

つまり、アメカジ野郎はいま着ている服の(彼らがあると信じている)確定した価値が減ってしまうことが恐ろしいのです。変えられない過去に価値を求めながら、過去を変えられないことが怖いのです。

ですから、服が今持っている価値が減るくらいなら思い切りやりたいことをやるより服や靴の維持を優先しますし、その結果リラックスや自由が犠牲になっても構いません。じっとしていれば服が傷まないなら、彼らは喜んでなにもしないでじっとしているでしょう。


彼らは、自分自身が我慢して服がよい状態を保てるならそれで良いのです。ジーンズを「育てる」こと(ジーンズの色落ち中心に生活する馬鹿げた行い)やエアフォースやエアジョーダンのつま先にプラスチックのパーツを入れてシワを防止することなど、自分自身を制限して服中心に生活することが最も素晴らしいことかのように思えることは不気味ではありませんか?彼らはそれが最も効率的だとすら思っているのです。

ジーンズがよい色落ちをするように、ポケットに物も入れず洗濯もせず常に気を張り、スニーカーの型崩れや加水分解に怯えている自分はかっこいいですか?自由やリラックスがそこにありますか?本当に彼らが自分のやりたいこと、なりたい自分に向けて行動できる服装はいったい何なのでしょうか。私には、過去に囚われ続けるアメカジは最もそれに不向きではないかと思えます。

彼らがまだ純粋な若者だった頃、アメカジと出会ったばかりの頃、果たしてこんな惨めな思いをすると思っていたでしょうか。こんな思いをしてもそれでも自分で自分を認めてあげられない、情けない人間になってしまうなんてことが想像できたでしょうか。

彼らアメカジ野郎が、過去に確定された服の価値に自らの価値を委ねず、あるがままの自分を愛し、自分の本当の声を聞いてやりたいことができることを、なりたい自分になれることを真に祈っています。彼らが変えられない過去の服を脱ぎ捨てて、本当に自分に必要な服を着たとき、無限の可能性のある未来へと動き出せるのだと思います。

今回もお読みいただきありがとうございます。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?