あなたになれない わたしと、わたしになれない あなたのこと #5


#5 ほとんど話したことのないクラスメイトのこと


世界憎み力(せかいにくみりょく)、みたいなものが減退しつつある。

いや、違う、待ってほしい。一行書いただけで、「ならばお前は無価値だ」という声と、「それにしては怒りすぎでは?」という声が左右から同時に聞こえてくるような気がする。ちょっと待ってほしい。どちらの言い分もよくわかります。

いきなりテンパっていてすみません。この告白がどれほど勇気を要するか、わかってほしい。ほとんど懺悔に近い。

仮に。理不尽な目に遭ったとき、自分を守るために自分以外のすべてを憎み、ギリギリ生きていく原動力に変えるエネルギー、みたいなものが存在するとする。
そしてそれを、仮に「世界憎み力」と呼ぶとして、わたしの世界憎み力のピークは十七歳から二十歳の三年間くらいだった。

高校生のときだ。中高一貫の女子校だったので、まるまる六年間を同じ女の子たちと過ごした。
友だちが少なかったとはいえ昼休みを共にする相手くらいはできたし、表立っていじめられることもなかった。
けれど、修学旅行の班組みでは必ず余ったし、隣の子にはいつも机を少し離されていた。笑いながら「何の本読んでるの?」と聞かれる時にはだいたい、「わかんな(笑)」というリアクションがすでに準備されていた。
それで、わたしは蔑まれているのだ、という感覚からのがれられなくなった。

スクールカースト、という概念は今や誰もが知るものとなったけれど、当時はそこまで普及していなかったと思う。親や教師に「教室には階級制度があって、わたしはその底辺にいて、だから学校が嫌いなんだ」といくら訴えても、「それはあなたの思い込みでしょう」といわれて相手にされなかった。

わたしだけが人間あつかいされていない、と感じるにつれ、わたしは流れるように世界を憎みはじめた。


世界を憎む、というのはたいへん大まかな言い方で、学校だけが世界ではないのは自明のことだ。わたしが本当に憎んでいた対象が「世界」ではないことも。そのことも当時から分かっていたと思う。
ただ、それを踏まえた上でなお、「ここで受け入れられないのならば、この先どこへ行っても変わらないのだろう」とわたしは絶望感を拡張していた。大多数のクラスメイトはうまくやれていてわたしだけが人間ではないかのようだ、その比率は、世界全体においても変わらないような気がした。結局、学校を憎むことも、隣の子を憎むことも、世界を憎むことも、当時のわたしにとってはそんなに変わりないのだった。

世界憎み力は、生きる原動力を生みだしてくれる代わりに、わたしだけが異なる存在である、という自覚を増強し、わたし対みんなという対立意識をあおる。わたしがみんなと同じであるならこのような扱いを受けるわけがない、という理屈だ。
思えば何もかも納得のいかない日々だった。そこを、いいや、みんなが間違っているのだ、と思うことで、飛び降りずに済んだ日がたくさんあった。わたしは特別なのだからこんなところで死んではいけない、と唱えるとき、いくらそれが思い込みであろうとも、人はけっこう強いものなのだ。
あれほどのさみしさを怒りに変えているのだから、多少強くなってもらわないと、計算が合わない。

「友だちが少ない」という人のふしぎな頑なさにふれたことはないだろうか。おまえ、口ではあれこれいうけどさ、本当は自分でまわりの人を遠ざけてるんじゃないの? といいたくなるような。たぶんあれも同じだ。その人を人間あつかいしなかった人たちが最初にいて、それを納得するために世界を憎みながら、じぶんを人間あつかいしてくれる人をさがしている。
むずかしいのは、それが誰でもいいわけではない、ということで、「友だちが欲しいなら素直にそう言えばいいじゃん」などといわれるとこちらはたいへん傷ついたりする。ちがう、ちがうのだ。はじめからわたしを人間あつかいしてくれる人と出会いたいのであって、いま周りにいる人たちは、もう遅いのであって……! と、もどかしくなるが、そう口にしてしまうのはあまりにもみじめだ。
「いじめられる方にも原因がある」という主張は、たぶんこういうところから出てくるんだろう。


世界憎み力、これだけだとろくでもないもののように聞こえるけれど、悪いことばかりでもない。
「みんなが言っているからといって正しいわけではない」「世界はわたしたちに対して冷酷なことがある」という前提を持って暮らせることは、世界を憎む大きなメリットだ。
そしてわたしの場合、青年期にふれた文学や音楽がそれを裏付けた。ドストエフスキーや椎名林檎がわたしの孤独にリーチしたように、いままさに世界を憎み、くちびるをかみしめている遠い教室の誰かへ届きたいと思ったことは、わたしが生きつづける動機になった。
これまでわたしが何か書いたり、誰かのために怒ったり、がんばったり、強い違和感を見過ごさずに済んだことの多くは、そういう力によるものだったと思う。そして、同じように世界を憎む人たちがわたしを見つけ、助けてくれたこともたくさんあった。

わたしと「世界憎み力」とは、そんなふうに付れ添ってきた。


さて、教室には、スクールカースト下位の人間にとって害にも益にもならないポジションの人、というのがいる。
濱口さんはそういう人だった。とくに悪口をいったり嫌がらせをしたりするわけでもなく、班行動のときなどは話しかけてくれるが、かといって友だちになるわけでもない。成績がよく、とくに突っぱらず、嫌われている教師ともちゃんとコミュニケーションをとることができる。それでいてカースト上位の子たちに疎まれることもなく、「優しい」「エラい」「頭がいい」という評価を守っている。

本来であればわたしが濱口さんを嫌ったり恨んだりする要素はないはずなのだが、いかんせんわたしはすでに世界憎み力によって生かされている。「みんな」のうちの誰かにやわらかい感情を持とうとした瞬間、世界を憎む根拠がぐらっと危うくなってしまう。それでわたしは、濱口さんのような人のことも同様に恐れ、憎んでいた。

これが、わたしが世界を憎む、ということの、いちばんばかばかしく、だめなところだった。

六年も過ごせば各々大人になってくるもので、高校三年生になるころには、悪口や嫌がらせはほとんど止んでいた。みんな受験を控え、そんなことに構っている暇がなくなった、というのが実際のところだと思う。午前で授業が終わる日も、塾に行くために欠席する生徒も増え、三年生の教室は人間のにおいが薄まっていた。

「さいきん、すごい病んでてさ」

と、濱口さんが話しているのが聞こえた。古文の時間だった。

「いままで病む人の気持ちって全然分かんなかったんだけど、さいきん模試あったり、親ともめたりして、やばいの。わたし」
「えー、大丈夫?」

「病む」という表現が流行り出したころだったと思う。友だちもいて、部活もやって、ちゃんとやれている(ように見える)クラスメイトたちが続々と「病み」はじめるのを、わたしは口惜しいような気持ちで見ていた。子どもっぽい競争心、苦しむことは、本来わたしの専売特許なはずだった。まして、濱口さんは、「病む」ことからほど遠い人のようにわたしには見えた。

根拠はある。濱口さんが「『人間失格』をはじめて読んだんだけど、主人公がメッチャかわいそうで泣けた」と話しているのを聞いたことがあったのだ。
当時そこまで太宰治や『人間失格』が好きなわけでもなかったのに、自分が「メッチャかわいそうで泣ける」といわれたようで、居心地がわるかった。わたしの抱えている問題をひた隠しにしたいと思った、そのことを、よく覚えていた。

濱口さんはつづける。

「昨日の夜がいちばんやばくて。リスカ? ってあるじゃん?」

リスカ、の発音し慣れてなさ。

「昨日ほんとに、カッター手首にあててみたんだけど、切れなくて」
「まじで!? どんな感じだった!?」
「なんか、手首がやわらかくてぜんぜん刃が入らなかった…フレキシブルって感じ」

フレキシブル!

その瞬間、清涼な風になぐられたようだった。聞き役の女の子はちょっと引いていたと思うが、そんなことはどうでもよかった。
フレキシブルだって! なんてさわやかだろう。自傷行為につきまとう痛みと麻痺のイメージとはあまりにかけ離れた、繊細な皮膚感覚がそこにあった。じぶんの手首をすこしさわってみる、皮がやわらかくひきつる、おそらくこのことを言っているのだろう。そして、昨夜、濱口さんは本当にリストカットをしかけて、そして、できなかったのだろう。
わたしは興奮していた。その一言に、濱口さんのリアルな健全さが滲み出ていて、かつそれが美しかったのがうれしかった。

濱口さんはとても健全で、わたしとはぜんぜん違う。でも、それでいいと思った。
ふしぎなことに、ずっと元気でいてほしいとさえ、そのときのわたしは濱口さんに向けて願った。


つい最近まで、そのことの説明がつかないままだった。

わたしの世界憎み力は、すでに熾火のようになってしまった。
息を吹きかければじわっと赤く灯るし、ときどき燃え上がることもあるけれど、すぐにおさまる。おかげで胸はいつもあたたかいけれど、わたしの歯車までは届かない。
簡単なことで、あんなにこだわっていたのに、友だちを手に入れ、表現する場所を手に入れて、わたしは他のところから生命力を供給するすべをあっさり覚えたのだった。

そのことをまだ受け入れきれていない。
ふと「あれ、あのころなんで死にたかったんだっけ?」と思うとき、わたしは猛烈に焦る。苦しかった実感を忘れていくのと同時に、じぶんの中に泥のような鈍感が巣食っていく気がして、それを押しとどめようと必死になる。
今となってはもう憎まなくても生きていけるはずなのに、さらっと世界への憎しみを手放すことを、まるで自分に許せないのだ。

けれど同時に、減退してよかった、と思うこともある。

昨年九月一日、自分のブログに、「『逃げてもいい』と言ってもらえる日のために」という記事を書いた。

九月一日、夏休み明けに若者の自殺が増えることに寄せて、苦境にある生徒のこと、わたし自身が死に瀕していた夏のこと、いのちが危機にあるときもつながるときもどちらも傍目にはわかりづらいこと、その中でわたしたちはどのようにいのちを救っていけばいいんだろう……という内容だ。前述した「世界憎み力によって書けたこと」の典型のような記事である。
その記事に、Facebookを通してメッセージが来た。

濱口さんからだった。

「お久しぶりです。ブログ読ませていただきました。
心にグサッと、そして芯まで届く文章に吸い込まれていく自分がいました。
ありがとう。
これだけを伝えたくてメッセージしちゃいました。」

そして、

「あの頃そんなこと思ってたなんて、、、
このブログ読むまで知らなかったわたしが恥ずかしいです。」

記事には、高校生のころ学校に行きたくなかったこと、死にたいと思っていたこと、を書いていた。

頭が動き出すまでしばらくかかった。最初に、そんなこというなよ、と思った。
当然、濱口さんを責めるために記事を書いたわけではなかったけれど、そういいながらも、濱口さんをも一緒くたに標的にした憎しみも、確かに身体に残ったままだった。

じゃあ、いったいなにを憎んでいたんだろう?

波がひくように恥ずかしくなった。濱口さんにわたしを思って恥じる器官が備わっていること自体、一切考えたこともなかった。
これがどういうことだかわかるだろうか。
人間あつかいしてほしいとあんなに願った結果、わたしは誰かれ構わず同じことをやりかえすしかなくなっていたのだった。

迷った末、「ほんとうにありがとう」と返事をした。
「すごくすごくうれしい」

濱口さんからのメッセージは、

「わたし教員を目指してて、だからすごくグッときたものがありました。
ありがとう。」

と、締め括られていた。

長いこと説明がつかないままだったけれど、あのときのことは、濱口さんが手首を切れなかった翌朝に吹いたあの風は、予兆だったんじゃないか、といまになって思う。

あのとき、わたしは、濱口さんがわたしとは違うかたちで悩んでいることがうれしかったんじゃないか。当時わたしが見ていたような、苦しむ人とそうでない人、に切り分けられた世界が崩れていく、まさにそのことの予兆。
そして、それは他でもないわたしが待ち望んだものではなかったか。

たぶん、これからも「世界憎み力」が掠れて消えていくことに焦りつづけると思うし、折に触れては怒ったり、忘れていく自分を許せずに逡巡したりすると思う。
それでも、減退していくのはやっぱり事実だ。命綱を手放すようで怖くもあり、さみしくもあるけれど、「世界憎み力」の先にあるほかの力の気配を、わたしはすでに知っているような気もする。

濱口さんからのメッセージに「ありがとう」と返せただけでよかった…なんていったら、高校生のわたしには「甘い」と怒られるだろうか。ごめんね、でも……その先になんと続ければ、きみは笑ってくれるんだろう。答えが出ないまま、二○十七年を終わりにしたい。

メリークリスマス、よいお年を。

                               (向坂くじら)

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