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自立の思想的拠点

ほぼ日アーカイブ「吉本隆明の183講演」から「自立の思想的拠点」(A002/1966年)を読んで考えたこと。8回目。

日常生活にある具体的なことだけで振り回される人のことを大衆と表現し、そこから自然と全体的なことを抽象的に考えて”しまう”人を知識人と呼ぶ・・・と吉本隆明は語っている。

あるタイプの人は、ほっぽっておいても余計なことを考え、「あれとこれは繋がるから、そこの関係はこうで、だから全体の構図はこうなる」、と頭が先走る。これが知識人の良い点であり、悪い点である。

そんなにも仮説的な全体像が必要なのか、という疑問がどうしても残る。

かつて大衆の啓蒙という言葉が使われたが、最近、あまり見ない。皆が皆、余計なことを考える余裕ができ、知識人になってしまったからなのか?いや、そんなこともあるまい。日常にある決まりきったことを別の視点から日ごろ考えている人なんて、そういるものでもない。

でもSNSを眺めていると、さまざまなニュースにコメントをつけている人はとても多い。この行為は知識人の行為なのか?あるいは吉本の言う大衆の日常のルーティンワークなのか?

あるニュースを反芻し自分の言葉でコメントをつけるのは、実はそう容易なことではない。ということはSNSのニュースへのコメントは、どこかにあった意見のコピペである可能性は高くないか?もちろん、比喩的な言い方だが。

現代、なにかとても知的な世界に住んでいるように思っているが、ほんとうは1966年に吉本が指した大衆と現代の"仮装”的知識人は、ちょっとした水たまりのこっちとあっちという距離かもしれない。知識人の俗化といったらほめ過ぎだろう。

こういう事情があるからこそ、日常生活を深く語り行動する人がより敬意を受ける2017年なのだ。



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