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イタリアデザイン史を振り返る 1

佐藤和子の『「時に生きるイタリアデザイン』の背景について以下のように書いたが、デザインの読書会の課題図書にしたので、気になるところにメモを残しておこう。今回の対象は「序」「第1章 1990年代。モダンクラシックの嵐」「第2章 1930年代のイタリアデザイン」「第3章 敗戦からデザイン黄金期へ」のおよそ100ページ。

方程式のないイタリアデザイン

まず、次の文章だ。日本とイタリアのデザインアプローチに言及している。

(前略)そしてイタリアのデザインには方程式のようなものがないからである。方程式があってコンセプトのない日本と、コンセプトがあって方程式のないイタリアとでは、デザインのアプローチが180度も違ってくるようだ。

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デザイン研究者のアンドレア・ブランジの”Ritratti e autoritratti di design"における指摘が、この「方程式がない」の部分の説明にもなると思う。

英国のビクトリア調、フランスのナポレオン三世スタイル、ドイツの新中世風のような様式の確立がなかったから、イタリアにはモダンな家(casa)のモデルがない。 だから、実験的にゼロから居住スタイルを作るとの「態度」ができたと彼は言う。

モダンな人々の家がスカンジナビアスタイルとして北欧にはできたが、イタリアでは新たな試みを繰り返すしかなかった。 だから、形状や機能について北欧のような厳しい線引きがされず、イタリアは材料や表現で勝負する土壌ができた。 プロジェッティスタとの役割や気質も、以上の文脈で見ると面白い。

ミラノのデザインに関して、「産業的文化」から「社会的文化」へ変容させた都市との説明できることになる。 イタリアデザインには正統派がないのが特徴というのは、佐藤和子のいう「方程式のない」との表現に照応するかもしれない。

ミラノトリエンナーレからデザインセンターへ

次はミラノ・トリエンナーレに触れた以下のところ。

18回は、92年2月6日から5月3日までの≪モノと自然との間にある生活・・・プロジェクトと環境への挑戦》展だった。

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確か、この展覧会において不可視のデザインやCMFに注力してきたクリノ・カステッリと環境問題に関心の高いエツィオ・マンズィーニが、コラボレーションをしている。デザインと自然環境がリンクされはじめた頃なのか?は、別途、確認しておきたい。

デザインのアーカイブとその展示のところは、ぼくもリアルでこの議論を新聞記事で読んでいた記憶がある。

その第一段階として、94年の12月から次の年の2月まで開催される≪1945年から1962年までのイタリア・デザイン≫展が、96年中に出来上がる予定のそのムゼオの出発点になるとの説明だった。長いイタリア・デザインの流れの中で、ミラノにこの種の展示場がいままでなかったのが、むしろ不思議なくらいである。

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ロンドンのデザインセンターやパリの装飾美術館などを例にあげ、同じように多くの人がイタリアデザインに接する場をつくるべきとの議論が盛んにあった。当時、ミラノでデザインに接するとはコルソコモ10、Via Durini周辺のインテリア家具・照明のショールーム、Via Montenapoleone 周辺のファッションの店舗を見歩くことだった。

実際にトリエンナーレ(Palazzo dell'arte)にイタリアデザイン史をみせるスペースができたのは2007年だ。常設ではなく、キュレーションによって違った編集をされており(場所も違う)、現在は1930年代から1990年頃までを展示している。そして2024年2月には30万点以上のアーカイブを開放する研究センターをオープンさせた。

また、コンパッソ・ドーロの受賞作品の展示にポイントをおいたADI( インダストリアルデザイン協会)のミュージアムも2022年にオープン。一方、コルソコモ10も数年前にオーナーが変わったが、現在、新旧オーナーが別々にデザインスペースを準備している。30年を経て、様相はがらりと変わった。

デザインと政治動向

再生や復刻を得意とするイタリアにおいて以下の部分をどう解釈するか?は迷うところだ。

90年代ももうすぐ半ばにさしかかるが、イタリアはますます保守的で右翼化が進んでいくように見える。

ミラノでは、かつて都市計画を進めるために、街の中を流れていた細い運河を埋め立てたり閉じてしまって、道路や建物をつくったりしたのだが、もう一度運河を生き返らせて、昔のミラノを再現させたらどうかという議論が起こってきたという。なにをいまさら時代に逆行することを考えているなんて、と笑っている間はいいが、ムッソリーニの孫娘が国会議員になって「祖父がこう言った。私の祖父はこうだった」と毎日のように新聞を賑わせているのを見ると、時代の逆行もまた可能になってきそうな気がする。

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この頃の新聞の記事も読んだのを覚えているが、今にして上記を読むと、やや違和感がある。ムッソリーニの孫娘の登場にうんざりさせられた人は多い。しかし、都市再生の話が政治動向の裏付けとされると、ハテ?と思う。

1970-1980年代の都市の歴史地区の再生の延長線上で運河の復活は(今の感覚なら)歓迎されてしかるべきなのに、あの時は、独裁者の亡霊と結びつけて再生自体をネガティブに捉えていたのだと想像できる。

合理主義的デザインへの見方の変化

その独裁者の時代に触れている文章は、今においても示唆的なところだ。

確かに31年から37年にかけては、合理主義の建築家グループがファシズムと最も近寄った時期だった。(中略)参加した人々がすべて真のファシストだったと考える人はいないが、中でパガーノとテラーニの2人は、思想的に最もファシズムに巻き込まれた建築家だったといわれる。

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その時に先端をいっていた合理主義的表現を志向する建築家たちがファシズムに「吸い寄せられた」のである。下の写真の建物はミラノ市内にあるテラーニの設計したものだ。40年代はいざしらず、「革新性」が強調された30年代のファシズムに才能ある人たちが一時的にでも引き寄せられた理由は分かる気がする。それを、この建物の前をよく通りながら考えることがある。

Milano, la casa Rustici in corso Sempione 36, angolo via Mussi e via Procaccini. Fu costruita dal 1933 al 1935 su progetto di Pietro Lingeri e Giuseppe Terragni.

ぼく自身、かつて合理主義的建築やデザインを好んでいたし、今も嫌いじゃないが熱量は下がっている。合理的ではないものに惹かれる度合いが高い。それはバウハウスの呪縛から解放されたからではないか、と自分の変化を解釈している。ソットサスを積極的に評価できるようになったとの入れ替わりみたいなものだ。

ミラノ市内に1960-1970年代に建設された建物には外壁にタイルを使っているものが少なくない。この理由を建築家の人たちに聞いたことがある。その仮説のひとつが以下に関連する。

「建築家ジオ・ポンティの設計したモンテカッテーニ社の大きなパラッツォ。そのオフィスのために、とてもモダンな衛生器具をジオ・ポンティ自らがデザイン。これらを制作したのは、ミラノのスヴォ社である」
これは1938年、『ドムス』に載ったスヴォ社の広告コピーだ。そこにはモンテカッテーニのビルとともに、浴室の洗面台や衛生器具の写真が大きく出ている。ミラノの中心地に建てられたそのビルは、衛生機器、ドアノブ、窓枠、照明器具まで、ほとんどジオ・ポンティがデザインしている。

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Milano, il primo palazzo Montecatini.  Arbalete

ジオ・ポンティは1960年代、以下の建物を設計している。グリーンのタイルを使用している。この手法が多くの建築家に影響を与えたのではないか?というのだ。例えば、トリノにも外壁にタイルを使った事例はあるが、圧倒的にミラノに多い。ジオ・ポンティの影響力の強さの証、というわけだ。

photo credit: @lafavetti

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