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活動なしに快楽は生じない。同時に、あらゆる活動を完全なものにするのも快楽である。

文化の読書会ノート。

アリストテレス『ニコマコス倫理学』第10巻 快楽の諸問題と幸福の生

納富信留『ソフィストとは誰か』と交互に読んでいる(読み終えたので、正確には「きた」)。

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第10巻は前半、快楽について論じ、半ば以降は幸福を語り、後半は知性の至高性や徳と幸福を経由して教育・立法・政治で終わる。つまり政治学の序章にあたる。

ここでは快楽についてまとめる。

人生の全体を貫き、徳と幸福な生活に対して重要性と力をもつ快苦をめぐる問題を回避するのは不可能だ。人は苦痛を悪として避け、快楽を善として選んでいる。善悪とは対立したものと見られている。

快楽には苦痛と混じり合っていないもの、混じり合っているものがあり、快楽の程度の差は苦痛と混じり合った快楽のみに認められる。苦痛の付加により、快楽が「より多い」「より少ない」となる。

「動き」や「生成過程」との見方は快楽に適用できない。

動きには速さ遅さがあるが、快楽にはない。「すぐ怒る」「すぐに楽しくなる」はあるが、「速く楽しんでいる」はありえない。

欠乏や充足過程は身体的なものである。快楽が自然的なものの充足であるとすれば、その充足が行われる当のものは快楽を感じることになる。すると、快楽を感じるのは身体だとなる。しかし、それは事実ではない。快楽を感じるのは身体ではなく魂だからだ。

学びにかかわる快楽、嗅覚を通じての快楽、多くの音や光景、記憶、希望は苦痛を前提としない快楽だ。不足が見当たらない。よって快楽は生成過程ではない。

それでは快楽とは何か?

快楽とは一つの「全体的なもの(ホロン)」である。見るという行為が、その次にくる行為で「形相(エイドス)」を完成させるものではないのと同じである。

神殿の建造全体は完全であるが(なぜなら、設定された目的に対して欠けるものはなにもないから)、土台の制作や柱の縦みぞ飾りの制作は不完全である。なぜなら、どちらの制作も、部分の制作だからである。したがって、形相の点で完全な動きを見いだすことができない。

動きはいかなる時点においても完全ではなく、お互いに形相の点で異なる。それに対して、快楽の場合は、いかなる時点においても、その形相は完全である。快楽はひとつの全体的なものなのだ。

快楽は「状態」のような仕方で、活動に内在することによってその活動を完全なものにするのでなく、活動に付随する一つの「目的」としてその活動を完全なものにする。

生きるとはある種の活動であり、それぞれの人は自分が最も愛着を寄せる能力によって活動する。例えば、音楽家は旋律に関して聴覚によって活動するのだ。一方、快楽は活動を完全なものにする。したがって、それぞれの人たちが欲求しているところの、生きることは完全なものにする。

<分かったこと>

ぼくは、人生のある時から「統合」ということをより意識するようになった。小さな日常的な経験の数々が「統合される」。その統合の実感が快楽と表現されるものと違うのか、同じなのか。

全体への執着という点で、アリストテレスの指す「全体」や「完全なものになる」と近いような気がする。もう少し考えてみたいテーマだ。

ところで、2週間ほど前、アイルランド人の旧友の誕生日パーティーに参加するためファエンツァに滞在した。以下に書いた。

その場で、旧友の旧友と知り合った。イタリアに長く住むアイルランド人で、イタリア人の彼の奥さんと3人でずいぶんと長い雑談をした。そのとき、ぼくがソフィストや古代ギリシャの哲学に関心を抱いている最中だと話した。

彼は現在はビジネスコンサルタントだが、ローマのグレゴリアン大学を卒業している。カトリック総本山の神父を育てる大学だ。かつて、上智大学の学長がグレゴリアン大学の学長に転じたことがあり、ぼくもその学長にグレゴリアン大学内を案内いただいたことがある。

まさしく哲学の徒のキャンパスだった。

そこを卒業した彼から、ぼくは一つのことを勧められた。俳優のヴィットリオ・ガッスマンが解説と朗読をするダンテ『神曲』をYouTubeで見ると良い、と。『神曲』を通じて古代ギリシャの哲学、殊に魂ということが見えてくる、と話す。彼自身は毎日、20分程度の解説と歌を聞いているが、なかなかの挑戦だ、とも言う。

彼のような人間にとって挑戦なら、ぼくにとっては無謀な試みとしか言えないが、よく分からなくても毎日耳にしていれば、何か感じるものもあるだろうと期待して聞き始めた。

なにせ、ガッスマンの声を聞き、朗読の姿を見ていると、古代ギリシャで人々を前に演説を講じていたソフィストはこんな感じだったのでは?と思えてくる。イタリア語がまったく分からなくても(『神曲』はラテン語ではなく、トスカーナ方言で書かれた)、ガッスマンの迫力にはやられるだろう。

いや、話をアリストテレスに戻すと、全体性や快楽を語る世界の空気を知るにもガッスマンの朗読は参考になりそうだ、と書きたかった。

尚、冒頭の写真は先日のブルネッロ・クチネッリのプレゼンテーションの様子。古代ギリシャ哲学に造詣が深く、それを愛するクチネッリも、本稿の内容にマッチすると思う。

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