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ブローデル『地中海世界』ーローマ

紀元前9世紀から7世紀、ラティウム(ローマの周辺)にとって初期鉄器時代から第二次鉄器時代への移行の時期だ。農機具の改良、増産、人口増加、大規模な定住化が行われ、原始的コミュニティが大きな組織のなかに包括されてゆく。それは同時に専門職の出現を促し、ギリシャ人到来(即ちは植民地化)の時期でもあった。

これらの一連の変化がラティウムに大きな社会変動を生んだのだ。社会的階層や経済的水準が、平等から格差への移行した。それは墳墓に残された数々の証拠によって裏付けられるが、土地の私的所有が貴族階級を出現させた。そして、この社会構造は紀元前700-580年頃にはより明確になっていたのである。

もう一つ特記すべきことがある。紀元前7世紀初頭、ギリシャ語アルファベットに起源をもつラテン語文字の導入だ。最初は貴族の「贅沢品」であったが、それが公用の財産になったのが紀元前6世紀であるのは、公的建造物に刻まれた碑文によって確認できる。

ローマがその後の中心地になったのは、テーヴェレ河の存在である。地中海と半島中部を結ぶ運搬路として利用され、エトルリア内陸部から農産物、鉱物資源、木材が運ばれた。ギリシャ人が住み着いていたマグナ・グラエキア(南イタリアからシチリア)とエトルリアの間の交通要衝としてローマがあったのである。ローマ市の誕生は紀元前600年頃だ。フォルムロマヌム(フォロ・ロマーノ)と隣接した広場が築かれ、市の政治・宗教・経済の中心としての機能を担った。

この都市の発生は、それまで2つの村落の間にある空間は衝突と戦争の地帯であったのを一部取り込み、構造化し、お互いの出会いの場として制度化した。即ち血なまぐさい戦争から、言葉の戦争への変異を生む。つまりは政治の誕生をも意味したのである。

都市の創設という空間の線引きと並行して、時間の組織化もはじまった。「ヌマの暦表」(ローマ暦)である。種々の祭礼を中心に構成された古い暦をベースに、1年を10カ月とする、いわば日付けの概念整備をした。

一方、ローマが人口増加と領土拡張の意欲を起点に、来るべき帝国主義につながる覇権の基礎ができ、実際に他の地域に進出開始するのが紀元前338年だ。ただ、多民族との衝突もみられ、アペニン山脈から東側には出向かず、この結果とも想像できるのが、使用価値から交換価値への志向で貨幣の出現である。

紀元前3世紀から2世紀は、数々の戦争と経済的社会変動でローマが大きく変貌する時期だが、その要因はそれまでの社会的骨組みの容量を超える状況に対処する術が充分ではなかったからだ。

<分かったこと>
都市化とは、2つの距離の離れたところにあるコミュニティにある、無人の中間地帯を包括する構造化であるとの見方を知って、都市における壁の意味が突如のように見えてきた。これによって地域間の平和的解決や合意を図る根拠が、物理的にも概念的にも可視化されたとするのは、近代的コミュニティの原初的イメージを饒舌に語ってくれる。空間にリアルな仕切りを設けることをマイナスに捉えるボーダレス世界観の支持にある脆弱さは、1人の個人がコミュニティを自身の存在の根拠と実感することなしに契約主体となるむつかしさに起因する。コミュニティデザインを考えるヒントになった。

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