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勇気のある人は臆病と比べると向こう見ずであり、向こう見ずからみれば臆病にみえる。

文化の読書会ノート。

アリストテレス『ニコマコス倫理学』第二巻 <性格の徳>と中庸説。

納富信留『ソフィストとは誰か』と交互に読んでいる。

性格の徳は、習慣を通じて完全なものになる。なぜなら、我々に備わるものすべては、既に我々のうちにあり、後に現実化する。技術の場合と同じだ。活動ー行為ーの反復から人の性格の状態が生まれる。そして、この状態は、不足と超過によって滅びる性質をもつ。

よって、節制と勇気は超過と不足(向こう見ずと臆病)によって滅ぼされ、「中庸」によって保全される。プラトンが言うように、よろこぶべきものをよろこび、苦しむべきものを苦しむようになっていないといけない。快楽と苦痛を避けると、人は低劣になる。徳とは、快楽と苦痛に関わりながら、最善のことが行える魂の状態なのだ(「情念」(快苦を伴う感情)や「能力」(感受性)でもない)。

即ち、第一に、行為者はなすべき行為を知っている 第二に、その行為を選択し、しかもその行為そのもののためにそれを選択、第三に行為者は確固としたゆるぎない状態で行為している、との条件を満たすことになる。

次に「中庸」とは?である。両極端それぞれから等しく離れているものではなく、過剰でも不足でもない量のことだ。「事柄における中間」ではなく、「我々との関係における中間」であるから、誰にとっても同じ中間はない。

さらに、両極端の様態は、中間の様態に対してもお互いに反対であり、中間の様態は両極端に対しても反対だ(勇気のある人は臆病と比べると向こう見ずであり、向こう見ずからみれば臆病にみえる。一方の極端が中間により近く、より似ているために、我々はその極端ではなく、それと反対の極端をいっそう中間に位置させやすい)。←我々は不足に対してより厳しい視線を向けるかもしれない。

したがって一般的な話ではなく、常に固有の話になる。個別的な説明ほど真実に近い。その一例として、下記の一覧表がある。

『二コマコス倫理学』77p

情念でいえば、しかるべき時に、しかるべきものについて、しかるべき人々に対して、しかるべきことのために、しかるべき仕方で情念を感じるかどうか、である。よって的を外すのは容易で、的に命中させるのは困難な「頂点(アクロテース=頂点と極端の両方の意味がある)」が徳の本質になる。

しかし、中間への的中が難しい以上、われわれには「第二の航海」という方法があり、それはさまざまな悪のうち最小のものをとることである。

<わかったこと>

徳に関して中庸とは何か?との問いに、一般的な回答はなく、個別のケースによるしかないとの意見表明が心地よい。この基本項目に対する鮮明さが、人の姿勢として望まれる。

人の生き方を語るに、科学や技術に影響を受けるレイヤーと受けないレイヤーがあり、ここは頑として「受けない」と明言できる資質が大切なのだと考える。殊にChatGPTによってオロオロしている人たちが多いのをみて、そう考える(ぼくがオロオロしない、というのではない)。

また、上記のように、中庸に関する一覧表があるが、中庸とはその性質上、書き言葉で記述すべきものではないと思う。中庸は話し言葉で輪郭を示すべきものだと思う。先日、COMEMOに「『知性主義』から脱する教育」を書いたが、この部分を指摘している。

話すことによって、議論の輪郭を柔軟に動かせ、多様な解釈を導くことができます。リズム感も重んじられます。書かれたものの場合、その自由度が減ってきます(この書かれた文章による思考の拘束が大きいのが、特に日本という地域の傾向だと感じています)。これが、どうも奔放な思い方、考え方にブレーキをかけがちになるとも思うのですね。

尚、冒頭の写真は2月に丹後に行ったときに撮影したもの。ここにある白い輪を「静輪」といい、糸の張力のバランスをはかるために使われる。どこの工場でもみる陶でできたもの。中庸を考えるときのヒントになりそう。

因みに、ChatGPTにまとめてもらったのは以下。

アリストテレスの『ニコマコス倫理学』の第二巻では、人間の性格について考察しています。アリストテレスによれば、人間は生まれながらにして徳を持っているわけではなく、徳を習得することが必要であるとされています。その中でも、性格によって異なる徳が必要であり、それぞれの性格に応じた徳の中で最も重要なのが中庸であるとされています。

アリストテレスは、性格には欠点と美徳があると考えています。欠点は過剰なものと不足なものの両方があります。例えば、勇気という美徳は、過剰なものと不足なものの両方が存在します。過剰な勇気は、無謀さや危険な行動をとることにつながります。一方、不足な勇気は、臆病さや逃げ腰になることにつながります。アリストテレスは、このような欠点を回避するために、中庸の徳が重要だと考えています。中庸とは、欠点を回避しながらも、過剰でも不足でもない正しいバランスをとることを指します。

アリストテレスは、性格に応じた徳を分類しています。例えば、勇気や寛容、誠実さなどがその中に含まれます。そして、それぞれの徳について、過剰な欠点と不足な欠点、そして中庸の徳があることを指摘しています。アリストテレスは、これらの徳を習得することで、人間はより完璧な存在になることができると考えています。

さらに、アリストテレスは、性格の徳を習得するためには、習慣化された行動が必要であると主張しています。すなわち、徳は単なる理論や知識ではなく、実際の行動を通じて習得されます。


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