見出し画像

山岳チーズのエメンタールは、グリュイエールの職人たちの手によって誕生した。

読書会ノート

ポール・キンステッド『チーズと文明』第6章 荘園と修道院 チーズ多様化の時代

1世紀、ローマ帝国は国境防衛のために50万人以上を常時駐屯させた。衣料と食糧の確保のため、各地で農業基盤を築く。羊毛の衣料、穀物、ベーコン、チーズ、野菜が基本アイテムだった。よってローマからチーズ製造用の道具と技術を運び込んでいた。またヴィラにも食糧を依存していた。ローマの大農場システムが各地に散在していたのだ。

(羊毛産業、ミルクの生産、チーズ製造の相乗作用は、多くの地域で認識されていたが、この後の欧州での展開を理解する鍵になる)

4世紀になると帝国の疲弊に伴い大農場、小規模農場ともに放置されることが増え、ヴィラの自給自足になっていく。これが5世紀以降、中世荘園制のもとになる。ゲルマン人の支配と社会構造にローマのヴィラが融合したものだ。

7世紀になると貴族の荘園が修道院に贈られ、肥沃な土地がチーズの発展を促す。教皇グレゴリー1世はベネディクト修道院を欧州各地につくっていき、10世紀になるとあまりに財力を持ちすぎ、改革派としてのシトー派が勢いをましていく。結果、この両派が欧州の経済とチーズの歴史の道筋を形成した。

欧州北西部で小作人が牛1頭か2頭を飼い、一頭分/日のミルクから主婦の手によりできるチーズは227グラム。これが中世初期のチーズの出発点になる。地中海と異なり寒冷であるため、絞ったミルクの保存期間が長い。よって何軒かがミルクを集め、チーズをつくっていた。

環境(温度、湿度、換気状態、ひっくり返す、擦るといった物理的操作)の差異から、柔らかい熟成した3つのグループに発展した。白カビチーズ、酸またはレンネットによる凝固で作られるチーズ、ウォッシュタイプである。

殊にウォッシュタイプは「修道院のチーズ」と称される。大量の牛や羊のミルクが入手でき、修道院の石造りの地下室が、条件として合っていた。フランスのコルビー修道院の記録からすれば、9世紀にはソフトな熟成型が多様化していた。神聖ローマ帝国のカール大帝も、白カビチーズかウォッシュタイプを愛でたとの記述がある。

(一般的に、チーズにまつわる神話は多い。これがEUの原産地名称保護など特殊な法的ステータスを特定の企業に与える根拠となる可能性もあり、要注意である)

ヴァイキングの侵略が繰り返された10世紀、フランスでは荘園領主たちの武装化が封建的土地制度の移行を促した。が、英国では中世末まで荘園制は維持され、この時代に固く締まった圧搾チーズの前身が生まれた。主に大きな群れの羊乳によるチーズだ。

海岸沿いの地域が羊飼いには適していた。フランス北西部とフランドル地方が羊毛の産地であった。イングランドも同様だ。織物とチーズの両立である。そこにもう一つ、バターが関与してくる。

バターはチーズを作る際にでるホェイからつくる。羊乳はクリーム層を分離させることが容易ではない。したがってバターの量は少ない(45Kgのチーズに対して0.9Kg)ため、中世初期では贅沢品だった。広く普及しはじめたのは、後期、牛乳の比重が増えた時期である(13世紀、チーズ生産と羊毛生産は切り離され、牛はミルク、羊は羊毛のための飼育となる)。

1066年、ノルマン人のイングランド制服により市場原理に沿った荘園チーズ製造がはじまり、その後、イングランドのチーズは大陸でも高評価をえた。フランドルとの羊毛貿易が栄えたことと並行している。12-3世紀、イングランドは農業の市場経済化がすすみ、荘園運営の合理化(職業的管理人による直接管理と詳細な経理報告義務)が利益の最大化を導いたが、フランス北部では荘園が崩壊して小規模農場がメインとなったのと対照的だ。

13世紀末に書かれた3つの書籍が、これらの荘園経営の様子をよく記している。『Seneschaucy』『ウォルター・オブ・ヘンレイ』『畜産学』である。

14-15世紀、英仏の100年戦争、ペストの流行による人口減が招いた荘園経済の衰退、これらが資本主義的な自作農階級(ヨーマン)の台頭とロンドンへの人口集中を生み、新しいチーズと新しい市場が誕生した。

一方、中欧の山岳チーズの発展に注目すると、ローマ人の占領以前から存在していた。1世紀にはアルプス山脈北側でチーズが作られていた記録がある。ローマにも輸出されていたので品質も優れていたはずだ。

スイス東部の三ガルと中央のムリでのベネディクト修道院では、中世初期の山岳チーズが垣間見れる。土地の農民に以前から伝わるチーズ製法を修道僧たちが学んだ可能性が高い。9世紀、荘園と農奴の寄贈があり、修道僧は管理の側にまわっていく。季節移動の牧畜と高地でのチーズつくりはスイス西部でもみられた。ここがグリュイエールとエレメンタールの発祥地だ。

14世紀、グリュイエールの評判は広域につたわり、市場原理に左右されるようになる。樽に詰めて船で輸送するに便利なサイズ(18-27kgX10個/樽)でジュネーブからローヌ川を通り地中海、さらには遠方への運搬される。

収益が高いため北部のベルンがチーズ貿易の権益を奪うべく、高地の権利を次第に取り上げていく。同時に、ベルンはグリュイエールからチーズ職人を勧誘し、エメ川の谷、エメンタールに定住させた。これらの職人が大型の固いチーズの開発に携わり、エメンタール誕生となる。

穏やかな味わい、(山を下って運ぶに便利な)大型の車輪型、固くごつごつした日持ちのするチーズが、スイスのみならず、ドイツやオーストリアの山岳地帯で出そろうのが中世の終わりだった。但し、フランス中南部の山地ではカンタルチーズはそれらとは異なり、塩を多く使った保存性の高いもので、地中海の製塩所との輸送ルートがあったからだ。

この供給ラインがロックフォールの青かびチーズの発展に貢献した。1070年、洞窟と荘園をベネディクト修道院が寄贈をうけたのが契機とされる。ロックフォール産チーズの成功に注視したのが、テンプル騎士団とシト―修道会だった。テンプル騎士団はライザック台地の牧草地を支配下におさめ、製塩所も共有者となり、大きな勢力となった。1411年、ロックフォールは初めて原産地呼称が許され、その後の世界での名声の端緒となる。

最後に低地チーズで忘れてならないものがある。パルメザンチーズやグラナパダーノだ。北部イタリアのポー川流域の谷のチーズだが、山岳チーズ製造の伝統をひいている。12世紀にベネディクト修道院やシトー修道会が沼地で排水の悪い流域の灌漑施設の建設を行ったことで、耕作地が広がった。牧草や飼料の生産性が高まり、乳牛の飼育も可能になり、牛乳のチーズ生産が盛んになる。

グラナチーズは、カードを小さな塊にカットし、カードとホェイを高温で長く加熱するが、この技術は修道僧が高地で行っていたものを借用したと考えるのが妥当だ。それだけ修道院の間のコミュニケーションは常時密であった。しかし、完成したチーズは山岳チーズと異なっていた。風味があり、大きなサイズ、長期保存も可能だ。多くの塩を使って低い水分量のものができたのである。ポー川の河口に塩の製造と流通の中心地であるヴェネツィアがあったから可能だった。結果、ヴェネツィアから出荷されたチーズはイングランドでも好評をえるのだ。

<わかったこと>
前章でキリスト教会内において教義の世界からチーズは存在を消したとあったが、一方で修道会がチーズの発展に大きく貢献したのは面白い。

いや、大きく貢献したどころか、ロックフォールにおけるテンプル騎士団による牧草地や塩のルートの独占などに見られるように、企業家の発想で利権の奪い合いに動いていたのが分かる。

またパルメザンチーズが修道僧を介して山岳チーズのノウハウが低地にもたらしたようなネットワークの重要さにも注視したい。イングランドにおける荘園経営の先進さにも興味を抱くが、さまざまな修道院がつくり支えた食事情に一層目をひく。

本来、要旨は1000字を目安にしているが、今回の章はメモとしてこれ以上は削れなかった。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?