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『ヴィンランド・サガ』を観てChatGPTと語らった

アニメ『ヴィンランド・サガ』(原作:幸村誠)が最高すぎたのでChatGPTとネタバレにならない範囲で語り合いました。

『ヴィンランド・サガ』は中世の北海のヴァイキングたちが覇権を広げる時代を描いた歴史アニメです。アイスランドに生まれた主人公トルフィンの物語に並行してデンマーク王子クヌートやヴァイキングのアシェラッドの物語が展開され、それぞれ神話や宗教とのかかわりが色濃く描かれています。

愛について

(問)アニメ『ヴィンランド・サガ』を観ました。このアニメの大きなテーマの一つは「愛」ですね、様々な愛のかたちが描かれています。象徴的な描写の一つに愛の本質を死に見る場面があります。あなたは愛の本質は死だと思いますか。ネタバレのない範囲で回答してください。

愛の本質が死であるかどうかは、個人の哲学や信念によって異なると思います。『ヴィンランド・サガ』において描かれたように、愛が死につながることで完全に自己を贈ることができるという見方もありますが、それ以外にも様々な愛の形が存在します。愛が何であるかについては、人それぞれの考え方や経験によって異なるため、一概に答えを出すことはできません。

ChatGPT

(問)ではあなたは愛は何だと思いますか。あなたの考えを教えてください。

私としては、愛とは多様な形をとる感情や行動であり、人間関係を深めるための力であると考えています。愛は自己と他者との境界を越えることができ、自分自身や他者を受け入れることで成立するとも言えます。また、愛は相手の欠点や過ちを受け入れることも含んでいるため、自己中心的な欲望や都合よく都合よく利用することではないと考えています。

ChatGPT

(問)では相手を受け入れることができない場合は愛は成立しませんか。

相手を受け入れることは、愛を成立させるためには重要な要素の一つです。相手を受け入れることによって、その人が持つ欠点や弱点を含めて、全ての面で受け入れることができます。しかし、相手を受け入れることができないからといって、必ずしも愛が成立しないというわけではありません。相手を受け入れることができない場合でも、その人に対して深い感情を持ち、支えることができることもあります。ただし、その場合には愛の形態や程度は異なってくるでしょう。

ChatGPT

欲望し過ぎないこと

(問)他者を受け入れるためには、他者に要求しすぎないこと、あるいは欲望しすぎないことが望ましいと思いますが、いかがですか。

そうですね、他者を受け入れるためには、自分の欲望や要求を過剰に押し付けることは避ける必要があります。他者との関係で自分が求めるものや望むことは大切ですが、そのために相手に対して圧力をかけたり、無理強いをすることは愛とは言えないでしょう。相手を受け入れるためには、相手の気持ちや考えに耳を傾けること、相手の立場や視点を理解しようとすることが重要です。また、自分自身を客観的に見つめ、自己成長に取り組むことも、他者を受け入れるためには欠かせないことかもしれません。

ChatGPT

(問)他者に何も要求しないということは、極論すると一人で生きていくということでもありますよね。

はい、そうです。他者に何も要求しないということは、人との関係を持たないということになります。しかし、愛や友情といった人間関係においては、相手を受け入れることが重要です。相手を要求しすぎると束縛になってしまい、相手を自由に生きさせないことになります。一方、相手に何も要求しないということは、相手を無視してしまうことになります。相手に適度な要求をすることが大切で、そのバランスを取ることが望ましいと言えます。

ChatGPT

モノにおける愛

(問)非生物にも愛はあるのでしょうか。たとえば、モノは私達に何も要求することなく自らを他者に与えているように見えます。

一般的には、非生物にも愛という概念は当てはまらないとされています。愛とは、生命を持った存在同士の関係性に基づく概念であり、相互に意識し合うことで成立すると考えられています。しかし、物や自然に対して深い感情や敬意を抱くことは可能であり、そのような感情が「愛」という言葉に重ねられることもあります。例えば、自然を愛する、音楽を愛する、書物を愛するといった表現があります。

ChatGPT

(問)死というのは、言い方を換えると非生物になることでもありますよね。愛の本質が死にあるというのは、モノであることが愛の本質と言えるのではないでしょうか。

死は確かに非生物になることを指す言葉ですが、愛の本質が死にあるという場合、それは「自己を他者に贈与すること」という意味での死です。つまり、自分自身を捧げ、他者と一体化することによって、愛が成立するのです。ただし、モノであることが愛の本質であるというのは、愛の本質を死に求める考え方とは異なります。モノには意志や自己意識がないため、愛の対象としては限界があるかもしれません。

ChatGPT

愛すること、食べられること、寄生されること

(問)その意味からすると、愛することと被食という行為はかなり近いようですね。

確かに、被食と愛することは表面的には異なるように見えますが、本質的には共通点があると言えるかもしれません。例えば、動物が他の生物を食べる行為は、生き残るために必要不可欠なものであり、食べられる側が犠牲になってしまうこともあります。しかし、それでも被食という行為が存在する以上、生命が維持されるためには必要なことであると言えます。

一方で、愛することもまた、自己を他者に贈与することであり、自己の欲望やエゴを超越した行為であると言えます。愛することで自己を他者に開放し、共感や理解を生み出すことができるため、被食とは対照的なものと言えます。しかし、愛することもまた、犠牲を伴うことがあります。例えば、愛する人を失うことは深い悲しみを引き起こし、自己の一部を失うことにもなります。そのような意味で、愛することと被食という行為は、表面的には異なりますが、本質的には共通点があると言えるかもしれません。

ChatGPT

(問)愛の本質は死であるというテーゼを食客論に敷衍して考えると、寄生するということは宿主に気付かれずに宿主から贈与を受けているとも言えます。この場合、宿主は寄生者に何も求めていないことになりますので、これも愛といえるかもしれません。

興味深い考察ですね。寄生者と宿主の関係を愛に例えることは、少なくともある種の共生関係に基づくものであり、寄生者が宿主に与える負荷が宿主にとって脅威とならない限り、宿主と寄生者の間には相互依存関係が成立することがあります。しかし、このような共生関係がすべての寄生関係に当てはまるわけではなく、また寄生者が宿主に与えるダメージが大きい場合は、宿主にとっては望ましい関係ではなくなります。そのため、寄生者と宿主の関係を愛に例えることは、限定的なものであると考えられます。

ChatGPT

ヴィンランド・サガとほとんど関係なくなってしまいましたが、星野太の『食客論』では海賊も食客として扱われていて、ヴァイキングの建国物語と食客論の矛盾は検討に値するかもしれません。

それにしても、さすが大量のテキストデータを学習させたAIは議論を一般的な理解に引っ張っていってくれるのですが、逆にいうとアイデアを転換するような議論はしてくれなくて、批評的な対話は向いていないかもしれません。

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