【劇評】誰のための拳銃か――劇団民藝『カストリ・エレジー』

はじめに

  • この劇評では、2023年5月26日から6月4日に上演された劇団民藝『カストリ・エレジー』を観劇したことを前提に書かれています。ネタバレにご注意ください。

作品紹介

劇団民藝『カストリ・エレジー』 2023年5月26日から6月4日紀伊國屋サザンシアターTAKASHIMAYAにて上演。
作=鐘下辰男 演出=シライケイタ

俺たちには未来を語り合える相手がいる――。
オレにはおまえが、おまえにはオレが。

鐘下辰男がスタインベック『二十日鼠と人間』をモチーフに戦後日本社会の不条理を鋭く見つめた意欲作(1994年初演)。
戦争の極限状態を辛くも生き延びた者たちを呑み込んでいく悲劇を臨場感あふれる台詞で描く。鐘下作品は初となるシライケイタ演出、劇団温泉ドラゴンより阪本篤を客演に迎え、刺激的な舞台に挑みます。

『カストリ・エレジー』、「劇団民藝公式サイト」(https://www.gekidanmingei.co.jp/performance/2023_kasutori-ereji/)より引用。

あらすじ

フィリピンの戦場で奇跡的に生き残ったケンとゴロー。いつも面倒を起こすゴローに手を焼くケンだが、敗戦後の混乱がつづく東京で、二人は不思議な絆で結ばれていた。ある夜、ドブ川に架かる橋の下のバラック群にもぐり込むが、ここを仕切る親方の息子・黒木に睨まれてしまう。住人は詩人、シベリア、川上、戦犯などと呼ばれる男たち、そして黒木の女房。その日暮らしの境遇のなかで、触れ合いを求めるそれぞれの欲求が交錯し、やがて取り返しのつかない事件が起きる。家を持ちたいと願うケンとゴローのささやかな夢の行方は……。

『カストリ・エレジー』、「劇団民藝公式サイト」(https://www.gekidanmingei.co.jp/performance/2023_kasutori-ereji/)より引用


誰のための拳銃か――劇団民藝『カストリ・エレジー』劇評

 
 ケンは拳銃を取った。その銃弾は、自分のためか、ゴローのためか。
 
 『カストリ・エレジー』は第二次世界大戦後の日本が舞台であり、主要人物であるケンとゴローはフィリピンでの戦争を生き抜いた元兵士である。生き残ったといっても、彼らは現地の少女を銃殺し、食糧を奪い取ったことで生き抜いたことを後悔し、ケンはトラウマに、ゴローはそのことが影響して「おかしく」なっている。
 ケンとゴローはその日暮らしの生活をしている。戦後の日本が何もかも失ったように、彼らも何もかも失った。しかし彼らは、誰にも縛られない自分たちの小さな家を持つという共通の夢をもっている。その夢のために彼らが歩き始めたその時、ゴローが有り余る力で黒木の女房を殺してしまい、舞台は悲劇で幕を閉じる。

 舞台『カストリ・エレジー』では拳銃が三回登場する。一回目は前述したフィリピンでの出来事だ。
二回目は、川上が詩人の飼っている犬を殺す時。川上は「臭い、生かしておくだけ可哀想だ」と、詩人の愛犬を銃殺する。詩人はこの時、バラックで横たわり、愛犬の死を川上に委ねたが、後に「自分の犬を誰かに殺させるべきではなかった。自分の手で殺すべきだった」と後悔する。
 そして三回目は、物語の最後、ゴローが黒木の女房を殺してしまい、黒木やシベリアたちに追われた時、ケンはゴローに拳銃を向ける。
 二回目までの銃殺で共通しているのは、自分の利益のために拳銃を向けるということだ。フィリピンでの銃殺は言わずもがな、ケンとゴローが飢えをしのぐため少女を銃殺する。二回目は川上が臭くてしつけのなっていないと嫌われていた犬を殺す。これは川上の利益になっている。

 しかし、黒木の女房を殺したゴローがドブ川の住人たちに追われた時のケンによるゴローの銃殺は、「ケンのため」と「ゴローのため」が共存している。この時、黒木も拳銃を所持しており、黒木がゴローのことを先に見つけていたら、黒木の手によってゴローが銃殺されていただろう。ケンは約束の場所でゴローを見つけ出し、黒木に殺される前に自らの手で銃殺する。これは、先の詩人の愛犬が殺された際に、詩人が感じていた後悔を自分はしまいということだろう。もしくは、逃げ延びても苦しい境遇になるであろうゴローをここで殺してしまったほうがゴローにとって幸せなのではないかと思ったからかもしれない。少なくとも、ここまでゴローのために行動してきたケンにとって、ゴローへの行動はやはりゴローのためであり、ケンを自ら手をくだすのは、やはりケン自身のためであろう。
 最後の銃殺は殺す側と殺される側、両方の利益となっていると言ってもいい。

 ここまで、私は〈銃殺〉と一括りに述べたが、舞台のクライマックスではケンがゴローの頭に拳銃を突き付け、しばらくの沈黙の後に舞台が暗転して終幕する。銃弾の音は響かない。つまり、この芝居では「ケンがゴローを銃殺した」という明らかな描写はない。銃殺したのか、それとも銃殺を思いとどまったのかは、観客それぞれに委ねられるのである。
 ケンはケンのために銃殺したか、あるいはゴローのために銃殺したか、それとも両者のために銃殺を思いとどまったのか。銃声が響かないというだけで、この作品の終幕を利己的な物語とするか、利他的な物語とするか不明瞭になっている。
 ケンは拳銃を握った。拳銃をゴローに向けた。その銃弾は、自分のためか、愛する者のためか。
 それを決めるのは、観客自らだ。

劇団紹介

劇団民藝公式サイト


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