世界音痴

自分が世界音痴だと気付いたのはいつだろう。逆上がりが全然できなかったとき?糸通しを使わなきゃ針に糸を通すことができなかったとき?

長い間自分はダメなやつだ、というより特別かも、みたいな気持ちもあった気がする。いや、今もあるな。小さい頃は勉強ができて先生に褒められたし友達のお母さんもよく「しっかりしてるね」なんて言ってくれてた。周りの子より優れてるからちょっと浮いてるように見えるのかも、なんて無邪気に思っていた。KYなんて言葉が流行ったりして、そういう周りのノリに合わせられなくて、でも大人は勉強ができてルールさえ守れば褒めてくれるからそっちに合わせていただけだ。リーダー的な役割を進んでやるようになってからくらいから、世界音痴だったのかもしれない。

私は人間くさいひとが好きで、尊敬していて憧れているひとが時折みせるお茶目なところにときめいてしまう。穂村さんもその一人で、『世界音痴』を読んでいると人間くさいどころか、えっそんなことまで言っちゃっていいんですか⁈みたいなことが度々でてくる。
ページをめくるたびにくすっと笑ったりホロリと泣けたり安心したりと感情が忙しい。それほどまでに穂村弘という人間像を表出しているエッセイ集だった。

例えば、「地獄のドライブ」というエッセイで、「何も違反はしていないけれど『変だ』という理由で停められるのである」とあって笑ってしまった。私も運転が下手だから笑いごとじゃないけど…。運転と料理とドラムができる人は本当にすごい。複数のことを同時に考え、手と脳と足で別々のことをする。人間を越えている。この間教習所で運転を料理に例えられて意味が分からなかった。
このエッセイにはさらに、「じゃあ、あんた短歌つくれるのか?と、まあ、云わないけどそんな風に思う」とあって穂村さんでもそんな風に思うんだ!とさらに笑ってしまった。というより、安心した。あんなに美しくワンダーできらきらした短歌をつくるひとも、自分と同じような部分があることに安心したのだ。

他にも、可笑しくて情けなくてどうしようもないエピソードがたくさんあって、変なひとだなあと思った。でもどのエピソードにも完全にではなくとも共感する部分があるのだ。みんなが「自然に」やっていることができない。私も集団生活を送る中でひしひしと感じていたことだ。その「自然に」できなさを穂村さんのエピソードと言葉によって思い出されてくすぐられる。穂村さんの言葉で語られることはどれも暗くなくて、ごちゃごちゃのおもちゃ箱からひっぱり出してきたみたいだ。可笑しくてくすぐったくてきらきらしていて、どうしようもなく穂村弘という人間を好きになってしまう。
それと同時に、逆上がりができなかったころの自分も、うまく周りに馴染めない今の自分も、好きになれる。
穂村さんのエピソードに心がくすぐられて涙がでるような一冊でした。

引用文献:穂村弘,『世界音痴』(株式会社小学館,2009)


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