見出し画像

「をかし」とは思わない

 遥か前の話だが、私が塾講師をしていた際の同僚から、以下のことを言われたことがある。

 古典ってホンマにおもんないわ。別に登場人物が「をかし」とかいってても別に俺はそうは思わんし。ただの感想やん。文学部はそーゆー雅なのが好きなんやろうけど。

 古典が面白くない/必要ない、といったことはよく聞かれるから、(本来はしないといけないのかもしれないとは思いつつ)特段の反論はしないのだけれども、この言い方は少し気がかりであった。

 というのも、この一連の発言からは、どうやら文学部生を「ただの感想」に心を打たれるような「雅なのが好き」な変わり者、としか見ていないように聞こえたのである。

 確かに、私もどちらかと言えば「雅なのが好き」な部類であるし、他の文学部生にはその類の人が一定数いるだろうことは予測できる。ただ、別に文学部は、文学作品を読んで「感想」を言い合うことが本分なのではないし、文学研究は「感想」をつらつら述べるものではない。あくまで人文科学の一端を担う学問である。そうだから、文学、特にこの場合は古典とその周辺の人々を、どこか見下して語るのはいただけない。

 そういえば、先に引用した同僚は、「別に登場人物が「をかし」とかいってても別に俺はそうは思わない」し、それは単に「ただの感想」なのだから「古典ってホンマにおもんない」と結論付けていた。しかし、よく考えれば、これは別に「古典」が嫌いな理由というよりも、自分と感想が共有できない人間が嫌いといっているように聞こえる。

 正直、その感性はよくわかる。私はどちらかというと排他的な人間なので、友人には、自分の考えとかなり合う人を迎えたいし、ぼくもそういう基準で他者から友達として迎えられたい。ただ、今回はそのような想いを、古典やら文学部やらに結びつけたのがよくなかった。そうした自分の感情は、なにかを攻撃するときではなくて、大切なものを守る際に使うべきだった。

 という「感想」を、興に任せて書き殴ってしまった。こんなことをするから、人文学は迫害されるのかもしれない。そのあたりのポーズについては一旦保留にさせていただいて、またじっくり綴ろうかと思う。

 という「感想」を、久々にnoteに訪れたぼくは、下書きの中に発見した。これを書いたのは約二年前らしい。別にとりとめない文章だけれど、興に任せて公開しておく。

 なお、画像は、長谷川凛ほか編『高校に古典は本当に必要なのか』(文学通信 2021年)の表紙より引用させていただきました。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?