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一隅を照らす×六次の隔たり

「一隅を照らす」とは、伝教大師最澄が残した言葉。

この言葉の真意は何だろうと時々考える。
1200年経った今でも残る、大切にされてきた言葉。


この世の中で、見聞きしたこと、経験したことの全てが同じ人は、1人としていなくて、自分の座標には自分しかいない。

同じ様な経験をした人は大勢いても、すべてが自分と同じ人などいない。

当然、感じる事も思うことも、人と違って当たり前で…

その人なりの一隅が、人の数だけあるのだと思う。

自分だけの一隅、自分だけが見えている景色、その場所で何ができるだろうか。

その場所からでしか、言えない一言があるかもしれない。

その人生に何か苦労があったのなら、同じ様な苦労を背負った人を救えるのかもしれない。

大勢の人に影響を与える人もいれば、私の様に狭い世界で生きている人もいる。
それぞれ、受け持つ領域が違うだけで、きっと良い悪いも、優劣もないのだと思う。

↑とても共感した記事


六次の隔たりという言葉があるけれど、今のSNSが台頭してる世の中では、三次とも四次とも言われている。

六次の隔たり(ろくじのへだたり、Six Degrees of Separation)とは、全ての人や物事は6ステップ以内で繋がっていて、友達の友達…を介して世界中の人々と間接的な知り合いになることができる、という仮説。

Wikipediaより

自分の一隅が狭かったとしても、自分が発した波動が、思いの外たやすく世界中に伝播するということだ。

自分だけが持っている領域の、目の前の事、目の前にいる人に心を込めたら込めた分だけ、小さな事だとしても、きっと波紋の様に広がって拡大していく。

軽いものは軽やかに広がっていくし、自分が聞いて不快な言葉も、もし自ら発してしまったら止める人がいない限り広がってしまうのだと思う。

私は狭い世界で小さな事しかできていないかもしれない。
思っている事をこのnoteに書くとか。
目の前の事を丁寧にするとか。
元気な時に、元気を渡すとか、
優しくいられる時に、優しくあるとか。

人1人ができることは小さいかもしれないけれど…でも、季節が変わってもいつもどこかで花が咲いてるように、
私が元気がないとき、誰かが元気で、私が優しくないとき、誰かがやさしい。

誰かがどこかで落とした優しいひとしずくに、きっと、いつも救われている。

地球の上でいつもさざめいている、ほんの小さな波たちが、この世界を保っているのかもしれない。






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