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狂ったように、自己紹介 -2021年10月

「あなたは何者ですか」
大学を卒業し、会社を退職し、組織という看板をおろした時に、あらゆるひとからまず問われることでした。拙い自己紹介に、伝わったような、伝わっていないような、微妙な結果を繰り返して、私はほとほと困ってしまいました。

「わたしは何者か」
それは、一言で言えるものではないし、言葉で語り尽くせるものでもないし、昨日と今日では違うし、あなたとわたしの関係性によっても変わるものでしょう。

小さい頃から本を読むことは好きでしたが、感想を言うことは嫌いでした。言葉にするということは、ありとあらゆるものを内包する、無限に近い豊かさをもったなにかから、一部分だけを選び取ってピン留めし、その他の部分を捨て去るようなことにも思えるからです。それは無意識のうちに(あるいは意識的に)、恣意性を働かせているということであって、この忌避感は、そうした自分のエゴへの臆病と同義なのかもしれないし、あらゆることを伝えたいという強欲であるのかもしれません。

そうした葛藤を抱えつつ、裸一貫のやり取りをたどたどしくも試行するうちに、言葉にすることで他者との関係性の中にはじめて生み落とされるものを、ともに育てていってみたい、という気持ちが増してきました。否応なしに繋がってもらえた組織というありがたい枠組みからはずれたとき、今さらながら、自分から伝えなければなにも始まらないということを実感したし、誰かに伝えて、誰かと始めた、その先の可能性の大きさに気が付いたのだと思います。

なので、今日は、今この時点での「わたし」を切り取って、文章にしてみたいと思います。
この文章が、私を構成するものを作ってくれた、これまで出会った多くの方々へのありがとうございますと、まだ出会っていない方も含めて、これからを一緒に生きてゆきたい方々へのよろしくお願いしますになることを願いながら、一生懸命書きたいと思います。

■ ソニー時代(2013年-2020年)

ソニーを退職して1年が経ちました。
育ててもらい、チャンスももらい、豊かな人との出会いにも恵まれた会社でした。入社面接で「好きなソニー製品は?」と聞かれ「VIERAです!(キラキラ)(※1)」と答えた阿呆を採用してくれた懐の広さには、正直、びっくりです。考えること(妄想すること)を仕事にしたいと思っていたので、企画や広告、空間デザインなどの分野を中心に就職活動をし、職種別採用での内定をいただいたソニーに入社、以後7年半商品企画ひとすじに携わりました。イヤホン・ヘッドホン・スピーカ・ホームオーディオ等、数えてみたら企画した商品は32商品でした。
キャピキャピの大学生が真っ当な社会人になれたのは、呆れながらも厳しく温かく見捨てずに指導してくださった諸先輩方のおかげです。本当にありがとうございます。そして、技術が強みの会社に、Bluetoothも知らずに入社してやっていけたのは、惜しみなく知見を分け与えてくださったエンジニアの方々のおかげです。ソニーで、技術によって実現できるもの・ことの魅力の大きさや可能性を知り、技術によって感動させられた自分を、初めて自覚しました。技術が好きで好きでたまらない、めちゃくちゃ専門性の高い、同時に子どものような探究心のエンジニアと一緒に仕事をした経験は、今の私の技術開発への揺るぎない信頼感に繋がっていると思います。
その道何十年のエンジニア、デザイナーなど、それぞれの分野のプロフェッショナルと、企画として仕事をする中で、企画職としての自分の専門性については、シビアに向き合わざるを得ませんでした。仕事仲間がその分野のプロフェッショナルであったからこそ、自分も企画のプロフェッショナルとして、ユーザーの心に刺さるものをつくりたいと、毎日思っていました。大学の専攻は法学だったため、企画は一からで、実践を体系だった知識に紐づけ、やりたいことを実現するための手法として使いこなすことができるようになるのに、数年はかかったように思います。今は「プランナーです」と言って生計を立てているわけなので、このとき頑張ってよかったなあ、と思います。

■ なぜ辞めたのか ー前編(2019年)

若者の御多分に洩れず(?)、転職を考えたことは何度かあったものの、毎度最終的には、ソニーだなあ、という結論に落ち着いていました。魅力的な人が多く、まあまあ好き勝手でき、そこそこにホワイトで、技術力という明確な強みを武器に、フルタイムで企画ができる、自分がこんなに自分らしく働ける会社はなかなかないと今でも思います。またいつかソニーの人と仕事をしたい(と思っていたらそれは思わぬ形で一部叶いました)。転機になった、それは2019年8月29日ころのことでした。なんとなく誕生日は自分の状態を見直すことが多くて、誕生日にパートナーと別れたのは1回ではないのですが(蛇足)、それはそれとして、29歳の誕生日が近づく頃、1年後の30歳という節目にどういう状態でありたいのか、改めて自分の本音と向き合ったのでした。そこで出てきたキーワードの一つが、「美術をやりたい」でした。

■ 美術とわたし

日本での幼稚園生、現地での小学校1年生の時、1年間イギリスに住んでいました。言葉も分からぬまま放り込まれた現地校で、初めて発した英語のフレーズは"Edmund kicked me!"だったそうですが(蛇足)、それはそれとして、西洋文化の中に浸れる貴重な時間だからという意識からか、両親が教会や美術館によく連れて行ってくれたのを、ほんのり覚えています。出先では、持ち歩いていたスケッチブックと色鉛筆で、ダビデ像をダビデ像とも知らずスケッチしていました。これが、自分の記憶にある最初の「美術」だと思います。いろいろな色が同時に描ける色鉛筆や、押し出し式で色を変えられるクレヨン、ギザギザ・ナミナミに切れる鋏、もう少し大きくなってからサンタさんがくれたちょっといい色鉛筆やちょっといいパステルも、思い出せば今でも心がウキウキします。美術館では、ミュージアムショップで売っているポストカードを、テーマを決めて集めようと言って、母と一緒に毎回1枚ずつ選ぶのも、子供心に楽しかったです。集めるポストカードの主題に、母は受胎告知の場面を選んでいましたが、当時5歳か6歳だった私はイエス・キリストの磔刑という、子どもにはやや刺激の強い見栄えの場面をなぜか選定し、皆に「なんで....?」と問われました。自分でも、「なんで....?」と思います。
その後、日本にもどり、小学校3年生の頃からだったか、絵画教室に通い始めました。

※この頃のことは、後にエスキースと短文に残しました。

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小学生の頃絵画教室に通うために毎週乗っていた電車の中から見えた風景です.延々続く鬱蒼とした森が一瞬途切れ、開けた段々畑がほんの数秒間だけ、眼下に広がります.午後の陽の光が一番綺麗な時間帯、日光を受けて、稲穂がキラキラ光っていました.最も印象に残っているのは、やはり実りの秋ですが、 季節により、ぐんぐん緑の育つ時期、刈り取りの終わったこげ茶の時期と、そこは様々な表情をみせ、今記憶を掘り起こしてみると、それらがいっしょくたになって、あの貴重な数秒間として思い起こされます.近くの風景は電車の車体とともに 飛ぶように過ぎ去りますが、目を遠くにやれば、開けた空と空間と畑が、どこまでも続くかのように悠然と広がっていました.この場所を大事な秘密を打ち合けるように教えてくれたのは、一緒に教室に通っていた近所のお姉さんで、少し悪ぶっていた彼女の心の中の感受性が、とても眩しかったことを今でも覚えています.

小学校の卒業文集には「ルノワールみたいな絵を描く画家になる」と書いたような気がします。
高校入学のタイミングで、京都から神奈川へ引っ越したのをきっかけに絵画教室を辞めることとなり、その後”普通の”高校生活を送ります。部活とアルバイトに励み、絵はほとんど描きませんでした。そのまま「美術大学」を一瞬たりとも進路の候補に思い浮かべることなく、大学に進学し、”普通の”大学生活を送ります。大学での出会いや経験は今にも繋がっている大事なものなので、それを後悔したことは1回もありませんが、「画家になりたかった自分どこいった」とはたまに思います。忘れっぽすぎる。
就職して2年経った頃、だいぶん仕事にも慣れてきて、人生の転換点は自分で作らないともう勝手にはやってこないんだ、ということにはたと気がつき、「あ、美術が好きなんだった」とおもむろに思い出します。そこで2015年に武蔵野美術大学通信教育課程に編入学しますが、忙しさを隠れ蓑にした自己管理の甘さから学業を続けられず、1年で退学します。そのまま仕事に邁進する数年を送りますが、再び「あ、美術が好きなんだった」ということを思い出し、2018年の秋に武蔵美通信に再入学をし、今に至ります。

■ なぜ辞めたのか ー後編(2019年)

ちょうど仕事としても一段責任範囲が増え、充実しつつも忙しくなってきた頃でした。「美術がやりたい」ということに自覚的になった時に、このままの時間の使い方をしていては、行きつきたいところには行きつけないだろうな、と思ったのが、辞めるにいたったはじまりです。最初はソニーに在籍したまま、あるいは勤務形態がフレキシブルな会社に転職するなどして、業務時間を減らす方向を考えていましたが、いろいろあり最終的には退職・独立を選びました。
当初は美術を最優先に、あくまで「食い扶持を稼ぐため」の手段として、企画の専門性を活かそうと思っていたのですが、その後よくよく考えてみると、自分は企画の仕事そのものがとても好きなのだということに気がついてしまいました。企画という仕事を通じてつくれる価値の誘引力に私は抗えない、好きなものはしょうがない、やりたいものはしょうがないということで、よくばりですが、美術の素養をもったプランナーという、独自のポジションを確立することに無理矢理決めます。

■ 今やっていること(2021年)

今は、退職時に引き続き、武蔵野美術大学通信教育課程に在籍し、制作を続けながら、個人事業主として企画/UXデザインの仕事をしています。心身の健康を靴から実現するキッド、空間音響技術で新しい文化を創造するクレプシードラ、そして人の思考の枠組みをとろかすマンクス・ロフタンを中心の仕事としつつ、企画やUXリサーチの単発案件を稀に受けています。
諸々複数件に取り組んでいるため、ある程度関係性のできた方にですら、節操なく怪しげで意味不明に思われていることを感じながら、肩身の狭い思いで取り組みを説明することがこれまで多かったです。ですが、「なぜ、わたしはこれをやるのか?」に抽象化してみれば、それぞれ自分の志に基づく営みなのだと包括的にとらえられ、不毛な惑いはなくなりました。

■  志

「柔らかな感受性と、多様な価値判断とを尊重し想像し合えるわたしたちに(なっていこうよ)。」

今の時点での自分の志を、格好つけずに正直に書いたら、こうなりました。

忙しない現代社会だからこそ、敏感にものごとを感受できる心身の状態を保つ。
絶対の正解はどこにもないということを自覚し、価値判断の多様性を楽しむ(時には苦しむ)
相手への想像力をもって、お互いに、それらを尊重し合う
そんなわたしでありたいし、わたしたちでありたいです。
「XXXな社会を作る」「XXXに変革する」などと書けたら格好良いと思うのの、人に変容を押し付けたくはないという気持ちが上回ります。
私はこう思うし、私たちとしてこうありたいと思うけれど、あなたはどう?と、手のゆき届くところから、手のゆき届いたものを通じて、そっと問いかけるような、繊細で親密な関わり合い方をしていきたいと思っています。

■ 感受性についての源流

大切にしているものの一つに、茨木のり子さんの「自分の感受性くらい」という詩があります(※2)。
心が震える瞬間をどれだけ持てるか、これは私にとっての幸せの定義に近いかもしれません。アルプスの山を登っていて、あまりに雄大な景色に一人で泣いた時だったり

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(手を伸ばしただけで空間の狭間に転げ落ちそうなあのスケール感が、写真だと伝わらないのがもどかしい)

今立で、刈り入れ直前の稲穂が金色に重く垂れた田んぼに、西日が当たってきらきら光るのを見てはっとした時だったり。

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はたまた大雨にけぶる信号の光の拡散具合だったり(家のそば)、

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急に緑が濃くなった5月の初めの朝だったり(家のそば)、

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変な形の雲だったり(家のそば)

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当たり前の日常にも、自分の心の持ちようひとつで、美しいもの・心動かされるものはあふれていると思います。おいしいものを食べることも、気の置けない友人とばか笑いする時間も、そうきたか!というような鋭いアイディアを目にした時も、気持ちはうきうきします。反対に、なんとなく元気のないひとや、秋の風の物悲しさに気づいて、寄り添うことを可能にするのも、感受性だと思います。
なんとなくの感覚をきちんと働かせて、いろいろなものをキャッチするというのは、自分を社会や世界に接続する、最も原始的な交信みたいなものかもしれません。そこからすべては始まる気がします。

■ 価値判断の多様性についての源流

少なくとも私の世代では、戦争の記憶にまだ一定の生々しさが伴っているのじゃないかな、と思います。小学校の教科書に載っていたちぃちゃんのかげおくりや、与謝野晶子の君死にたまふことなかれ、図書館で読むや読まずやをやっていたはだしのゲン、太陽の子や戦艦大和の最期、ひめゆりの手記、広島の平和祈念資料館や長崎の原爆資料館への訪問、など、など、触れる機会は多かったですし、直接話を聞くことはなかったとしても、自分の祖父母は戦争の記憶を抱えていました。大切な人が理不尽に死ぬような、こうした大きな悲しみを、もう生んではいけないということは、だからなのか、ものすごく素直な、そして強く沁みついた感情になっています。

戦争は「経験していない世代には絶対に分からない」とも言われます。一面ではその通りで、経験者と同じように分かることは土台無理な話でしょうが、それは何事においてもそうなのだと思います。障がいであれ、マイノリティの心情であれ、あるいは失恋したり試験や就活で失敗した友人の気持ちであれ、当事者と同じように分かることはできないが、分かりたいと思うこと、分かりたいと思って、目を見開いて耳を澄ませて頭を働かせて、想像し、共感を働かせることはできるのだと思います。幼いからこそ、素直に共鳴しやすかった面はあるかもしれませんが、特に戦争にかかわる個々人を描いたものに触れたときに、それぞれの人生に入り込み、一緒に笑ったり泣いたり怒ったりして、戦争の中で生きたある人の人生のごく一部を、わずかに追体験した時間は確かにありました。本当に、ごくごく一部にですが。

戦争という巨大なものをとらえるには、世界全体のパワーバランスやこれまでの歴史など、考えなければならないことが莫大で、途方もない気持ちになりますが、諦めてはだめだ。初めてそう思ったのは小学生の時で、将来の進路として国際連盟やNGOの職員なども想像しました。しかし、子どもながらに「それは私の選びたい道ではないな...」とすぐさま諦めました。どうしてだったのか、当時の気持ちを探っていくと、「崇高な理念のために」「身を挺して誰かのために」、という行為に、自分自身の喜びや生きがいを見出せなかったのだと思います。ものすごく手前勝手なやつに思えますが。あくまでも自分が、自分の在りたい状態であれることが第一義にあり、そのための必要条件として、戦争に代表されるままならない悲しい状態や、「理不尽(≒私にとっては、価値判断の押し付け)」のない状態がある、この優先順位は今も変わっておらず、自分のうきうき・わくわくを我慢して、無理矢理頑張ることは今も昔もしんどいに違いなかったのでした。国際協力は「必要だ」「重要だ」と思いつつ、無私にその道に邁進されている方々を尊敬の念を抱きながら指を咥えて眺めつつ、その道は決して選べない(選ばない)自分、というものを長いこと持て余していました(※4)。でもようやく、「理不尽な抑圧や押し付けがない状態のために何かしら寄与すること」と、自身の「本心からの納得」の両立が成り立ってきました。それがまさに、美術や企画という仕事・表現を通じて、価値判断の多様性を示唆していくことなのだと思っています。

「サファイアの書」という本があります。ユダヤ教徒、イスラム教徒、キリスト教徒の3人が共に行動する中で...という話で、小さい頃に読んだので内容はほとんど覚えていないのですが、信じるものが異なるその3人の間に芽生えた寛容の心、という部分だけは痛烈に印象に残っています。人はそれぞれ違うということ、感じ方も考え方も価値観も異なるのだと知ること。その上で相手の価値判断を尊重し、そのバックグラウンドを理解し合おうとすることは、綺麗事なのかもしれないけれど、人間関係構築のため、ひいては平和のための、小さな、しかしとても大事な一歩と思うのです。そうしたことを考えさせられる本で、サファイアの書よりライトで、かつ一昨年最も人におすすめした本が、ブレイディみかこさんの「僕はイエローでホワイトで、ちょっとブルー」です。おすすめです。(※4)

■ 尊重し想像し合うということについて

強い言葉、速い言葉、分かりやすい言葉が価値を持ちやすい社会だなあと思います。(実際、「1分の自己紹介で自分のことを伝えるなんて無理だ」という発狂から、この発狂するほど長い文章を数ヶ月かけて書いているわけですが、いったい何人の人がここまで読んでくれるのか自分でも疑問でするめ。)
忙しいし、見えているものだけでも恐ろしい情報量が溢れているし、この上さらに、見えていないものまで見るようにするのは大変なことです。それでも、言葉や行動の裏の複雑性をまず認知して、尊重し、できることならば想像しあいたいと思います。この点についてはごく最近、友人の友人である誠二郎さんの試みに、本当に胸を打たれました。この話は直接お会いした方に話したい。

■ 美術と企画とわたし

なぜ、美術と企画なのか?
全く脈絡のないものをやっているようでいて、抽象化していくと、自分の中では繋がっているんだということを、ようやく表明できるようになりました。

企画を軸にした個人事業を開業するとき、事業の柱として、このようなステートメントを書きました。

おなかいっぱい食べたい。あたたかい服を着たい。できれば美味しいものを食べたい。お洒落をしたい。音楽と踊り、映画で笑い、詩に泣きたい。◆人間の欲求はたくさんあり、そこから数多の事業機会が生まれてきました。 はじまりはいつだって、 誰かの(それがたったひとりでも)、心が震えることです。◆たまらなくそれを見たい。たまらなくそこへ行きたい。 なくても生きていけるのに、なんだかほしい。◆
そういうものをまた一つ、世の中に生み出すことが、 TOKIDOKI STUDIOのミッションであり願いです。
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※TOKIDOKI STUDIOというのは気恥ずかしくてあまり言っていませんが屋号です。

私にとっては企画も美術も、心が動く瞬間をとらえることにはじまり、心が震えるものを生み出す営みです。それは、自分の感受性を殺していてはできないことですし、仕事を通じて、誰かの感受性を刺激することや、価値観をぐらぐら揺さぶることのできる力を持ったものだと信じています。「世の中の見方を変える」「視点をずらす」ことで、目に見えないものを見えるようにして、驚きや笑いや感動や美しさをうみ出せるのが、企画であり美術制作であって、それは多種多様な人それぞれの価値観を、ポジティブな形で可視化し、具現化することに他ならないと思ってやっています。
あえて違いを言ってみると、をかしが企画で、あはれが美術、という感じですね。(これが伝わったら嬉しい)

■ この1年やったこと(2020年-2021年)

作品を少しだけ載せます。仕事については追々まとめます。たぶん...。

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去年の9月に今立紙展に出展したときのもの。街と自然をテーマにした作品群。寄せてくださった感想が本当に嬉しかったので抜粋します。(トビーちゃん伝えてくれてありがとう)

今朝展覧会を見に来てくださった方が、二階の作品を階段登って見たとたん、「なんだか涙が出てきたのよ」と言ってたよ。「別に悲しい涙じゃないのよ。ただ、なんだか。。。イヤー、本当にこんな時代になってしまったんだなーと思って。」と仰ってました。感動したそうです🌸

展示

街(展示)

モーリシャスの海(90x60)

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大学で描いたもの。

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武蔵美グループ展で有楽町マルイに出展したとき。またやりたい。

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日進月歩です。

■ これから(2021年-)

去年は初めてのことも多く、半分しか目が見えないのを行動量でカバーとばかり、ばたばたばたばた走り回っているような年でした。当時の自分なりには、目指す先を明確に持っているつもりでいたけれど、走りながら初めて見えてきたこともたくさんありました。やりたいことを思うがままに100やって、これからも本当にやっていきたいことが5つ残ったような、そんな感覚です。
今年は学業と仕事の両立を続けます。
武蔵野美術大学は今4年生ですが、卒業を1年伸ばし、仕事と両立しながら、卒業制作の取材に、じっくり取り組むことにしました。
「デザインもできる企画」になるべく通った桑沢デザイン専門学校の夜間部は、「デザインのわかる企画」になることをゴールに変更し、今年度で卒業予定です。未来のデザイナーの友人がたくさんできたのが1番の財産かもしれません。
仕事では、Noと言うようになりました。最初の頃は、仕事がなくなり飢える怖さもあり、些細な違和感であれば目をつぶって仕事を受けることもありましたが、今は、自分が本当に良いと思う仕事に、尊敬できるパートナーと、お互いをいかし合いながら精一杯向き合っていると、自信を持って言えます。なににNoと言うかを決めることは、当然何にYesと言うかを決めることでもあり、志に紐づく仕事を、まだ道半ばですが進めています。個々の内容については、いつかしっかりお知らせしたいですが、概略のみ列挙します。

株式会社キッド ー池袋に店舗を構えて数十年の老舗の婦人靴専門店
小売りとしての靴販売の枠を超え、靴を通じた体と心の健康に真剣に向き合う靴屋さんです。思いが高じて店舗をリフォームし、産学連携で開発された288サイズの木型からオーダーできる、国産の本革オーダーパンプスを店舗のメインに据えています。足が痛い・疲れる・脱げるなどお悩みを抱えてらっしゃる方は、良かったら足の計測だけでもいらしてください。
オーナーの小堤さんは、2019年の秋頃、進路に迷った時に友達でも親でも会社の同僚でもなく、1番に相談した恩人です。
最近はパンプスギフトサービスをリリースしました(※5)。ギフトカードのデザインは翠緑さんです。
クレプシードラ株式会社 ー空間音響技術の凄い会社
クオリティと取り回しのし易さを高いレベルで両立させた空間音響技術をもつ会社です。デモに惚れ込み、空間音響技術をいかした文化創造を目指して共に試行錯誤中です。協業のお誘いお待ちしています。
マンクス・ロフタン ーみえないものをみるレンズを手に、正解のないことを楽しむ時間を創る
”ぼかし肥”をコンセプトに据え、食農を切り口に、世の中や自分にとっての当たり前をとろかす体験をつくっていきます。
続報をお待ちください。
そのほか
桑原木材株式会社 ー愛知・岐阜を拠点として木材関連事業を行う会社
好きを無心に突き詰めた結果、木材に熱狂しています。木材トークをしてくれる人募集中です。来月岐阜県に行きます。
株式会社LUYL ー下肢装具をつけていても履けるおしゃれな靴のブランドMana'olanaを運営
もっぱら応援者です。
大山町と東白川村はときめくスポットです。

■最後にいわゆる自己紹介ぽいもの

仕事
・企画/UXデザイナー
・人間中心設計専門家
・絵のお仕事もたまにします
趣味
旅行・探索・探検/散歩/初めてのこと全般/おいしいものを食べること/温泉・お風呂/高いところ/広いところ/色探し/木の皮の写真集め/寝ること/スノボ/読書
特技
剣道三段 / 少林寺拳法初段 / 色彩検定1級

■ 本当の最後に

ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
他人の自分語りにおよそ1万字もお付き合いくださるような奇特な方は、すでに私と深く付き合ってくださっている方か、これから深く付き合いたいと思ってくださっている方、あるいは少しは気にかけてくださっている方なのかなと思います。
そういう方に恵まれていることが、私の幸運の一つです。本当にありがとうございます。
なかなか全員と頻繁にお会いすることも叶わぬ中、どのような1年であったかを踏まえて、1年ごとくらいに、自分語りをアップデートしていけるような日々の積み重ね方をしていきたいな、と思っています。ここまで読んでくださった方がいれば、これをきっかけに、話に花が咲いたら嬉しいです。

また、今の自分があるのは、かかわってくださった多くの方々のおかげです。ですので、本来であれば、自己紹介の一部として、これまで縁をいただいたお一人お一人に感謝を書きたい気持ちです。いつまでも書き終わらなくなるのでそれは思いとどまりますが、この文中にも、お世話になった方々にもらった言葉のプレゼントが織り込まれています。長い期間濃ゆく交わった方もいれば、偶然の出会いで印象的な言葉や時間を交換したような方もいれば、私はなにもお返しできておらず、一方的に指針を与え続けてくださっている恩人のような方もいます。

家族、友人 | 小・中・高・大学の友人、Qクラ、部活の仲間 | 先生方 | シンポのメンバー | ampm、月光庵、塾講師時代の方々 | ソニーでお世話になったたくさんの方々、同期 | 今立の皆さん | 武蔵美・桑沢の学友 | 仕事仲間、お仕事をご一緒している・していた方々 | 新しく出会った鳥取の友人 | ICCの方々 | ふとした場所・旅先で出会った方 | 北海道の素敵な農家さん方、事業者さん方 | 尊敬する在野の企画屋 | 関係性はもはやよく分からないけれど、なぜか慕わしい方々、一方的に尊敬したり、お世話になっている方 | ほか。もう会えない方も。

いったいここまで読んでくださる方がいるのかは心の底から疑問なのですが、基本的にはお付き合いのある方で、でもこのような話はあまりしたことのない方に、現在進行形の今を聞いてほしくて書きました。

なので、
いつもありがとうございます。
これからもどうぞよろしくお願いいたします。またお会いしましょう!

という言葉で締めくくります。
∟(ο ω Ο )┐ΞΞΞ


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※1
VIERAはパナソニックのTVブランドです

※2
茨木のり子さんの「自分の感受性くらい」
本当に良い詩なので、ご存知ない方はぜひ読んでみていただきたいし、忘れかけている方はぜひ読み直してみていただきたいです。

※3
>無私にその道に邁進されている方々
の一人であり、そういう意味で私と違う志向性を持っているのが妹で、自分の妹ながら尊敬し応援しています。この文章には、彼女らしさが溢れていると感じます。

※4


先月続編が出ました。

※5
9/2靴の日にリリースしたパンプスギフトサービスです。

おしまい。



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