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任期を終えて

1月29日をもって、青年海外協力隊エチオピア派遣2年の任期を満了しました。
なんとなく肩の荷が下りたのか、色々吹っ切れたのか、2度めの就活にも身が入るようになった気がする。


今回は、ギリギリまで何を言うか迷った最終報告の内容を。報告会に盛り込めなかった補足も多少入れつつ。

まずは2年で得た気づきから。


「私だったかもしれない人たち」

私はただただ運がよかっただけなんじゃないかと思った。生まれたところガチャでたまたまSSR、これは食べもの・水・住む家・教育の選択肢に困らないところという意味での、を引いただけで、私はもしかしたら、今目の前で話している、仕事がなくて困っている誰かだったかもしれない。

もちろん生まれたところだけでなく、この先も私は簡単に脆弱な立場になりうる。災害で家がなくなるかもしれないし、事故や病気でそれまでと違う生活になるかもしれないし、仕事…は今もないが、感染症拡大で日本国内にも困窮者が増えているニュースを聞いてより一層、私も簡単に支援を受ける人になりうるんだ、という感覚を忘れずに持っておきたいと思った。


Common sense is the collection of prejudices acquired by the age 18.

この2年で学んだことを1つだけ、と言われたらこれを挙げる。
「常識とは18歳までに集めた偏見のコレクションのことである。」アインシュタインの言葉だそう。

時間通りに来るべきでしょう。
早くから予定を立てなきゃダメでしょう。
…あれ、私なんでそう思うんだっけ?とよく自分に問うた2年だった。ところ変われば常識も変わる。私の常識、あなたの非常識。

私は、偏見に自覚的でいたい。
今の私の見方は、どこに偏っているだろう?


最終報告って、できた成果を報告することが多い。
けど、私はできなかったことを挙げてみました。


活動を「エチオピアの人たちのもの」にできなかった

現地の人と上手く・仲良くやることとこれは全くの別物だった。仕事が増えても給料もポジションも上がらない人たちに「頑張れ」と言えなかった。本当に良くしようと頑張っているけど政党の都合で出張ばかりの上司に「もっと腰を据えてやって!」とは言えなかった。

日本から表彰状用紙調達して個人表彰システムつくったら物珍しくてちょっと変わったりしないかなぁ、と夢想した。試せなかったな。



現地の日常を撮れなかった

これは先日書いたこちらの話。後悔はない。



綺麗にお別れできなかった

日本に帰国するときに同じように思った隊員もいるかもしれない。私たちはエチオピア初の新型ウイルス陽性判明者が日本人だったこともあり、1週間の自宅待機からそのまま帰国した。かろうじて当時の配属先の上司に電話したくらい。

さらに私は、途中で引き上げした任地ディレダワの人たちとも綺麗にお別れできなかった。しなかった、できなかった、どっちだろう。
現地の人の感覚では今は安全、でもその先のことも考えると退避が繰り返されそうな危うさがディレダワにはあった。「こんなに安全なのに、なんで?」を聞かれるのがいやで、聞かれてもアムハラ語で答えられなくて、あとは精神的に参ってるときに「あれちょうだい、これちょうだい」と言われるのがいやで、多くの人にお別れしないまま引き上げた。

できなかったけど、自分で「良い」「悪い」のラベルを貼る気は、ない。ただ、できなかった。



最後に。

これから

私はたくさんエチオピアから学ばせてもらったのにエチオピアの人たちが実感できる成果は少なかった、という心残りばかり。私、協力隊の応募書類で「ボランティア活動の目的とは?」って設問に「教えあいによる相乗効果で互いの生活を高めること」って書いたのに。私はこの先ずっとこの心残りを抱えて生きるんだろう。

だけど、多分、私は10年後とかもうちょっと先できちんと自分の想いを供養することができると思う。今まで、そうしてきたから。

だから今回も多分、未来の私がちゃんとどうにかするでしょう。
そのときに向けて、心身の健康に留意して、国際協力に携われる仕事を志そうと思います。

2年で叶えられなかった目標を未来の私に託して、私の最終報告とします。




エチオピアの話をするのは任期中だけにしようと思ったけど、最終報告書に「隊員経験を社会還元または発信するための方法と計画」の項目があり、「そっか別にまだ書いてもいいのか」という気分になったので思いついたらまた書きます。

何はともあれ一区切り。
お読みいただいた方、応援してくださった方、一緒に頑張っていた方、皆様ありがとうございました。

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