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縁切りの呪法 〜裏切りの代償〜

「もしかして、不倫……?」

 夫のスーツから甘い香りがした。女物の香水の匂いだ。電車やエレベーターに乗っている間に、匂いが移ることもあるけれど——。

 スーツの左袖を顔に近づけると、香水の匂いが強くなった。おそらく長い時間、密着していたのだろう。そうでなければ、こんなに濃い匂いがつくことはない。


 その夜。夫のいびきが大きくなるのと同時に、諒子りょうこはそっと起き上がった。不倫をしているかどうかを確認する為に、夫の携帯電話を手に取る。

 ——起きないでよ……。

 夫の布団をそっとめくって、腕を引っ張り出した。指紋でロックを解除して夫の顔を覗き込むと、相変わらず、口を開けて大きないびきをかいている。当分は起きそうにない。

 トーク画面の1番上にある『ゆな』というアカウントを開き、画面をスクロールする。すると、先月の出張が嘘だったことが分かった。夫は知らないうちに有給を取っていて、『ゆな』という人物と旅行へ行っていたらしい。

 苛立ちを抑えながら、諒子は他のメッセージを確認する。どれもこれも、見ていて恥ずかしくなるようなやり取りばかりだ。

 ——何これ、気持ちわる……。

 意外と怒りは湧いてこなかった。おそらく、ゆなという人物は若い女性なのだろう。50代の夫が無理をして若者言葉を使い、愛を囁いているのが、心底気持ち悪いと思った。

 見られたらすぐに不倫がバレてしまうような内容のやり取りを、夫は消していない。妻に浮気を疑われるとは思っていないのだろう。

 ——甘いなぁ。こんな人でも課長が務まる会社って、どうなの。

 諒子は、不倫の証拠になるやり取りを写真におさめてから、眠りについた。


 パート先の休憩室で、諒子は携帯電話に『不倫 離婚』と入力した。

 夫への愛情はもうない。それに、息子も就職して家を出ている。不倫をしていると分かった以上、もう夫の世話をするのは嫌だと思った。せっかく不倫の証拠があるのだから、慰謝料をとって離婚した方がいい。

 まるで他人事ひとごとのように、黙々と離婚について書かれた記事を開いていく。

 ただ、夫が不倫をしていること自体には怒りや悲しみはないが、改めて自分が今まで味わってきた苦労を思い返すと、全身が、カァッと熱くなってくるような怒りを感じる。

 家のことも子供のことも、全部妻に押し付けておいて、夫は「俺が金を稼いでいるのだから」と言い続けてきたのだ。3人分の家事がどんなに大変なのかも、息子が赤ちゃんの頃は夜泣きが酷くて、眠ることができない日々が続いていたことも、夫は知らない。

 息子が小学生になってからは、パートを始めた。正社員で働くことができなかったのは、夫の協力が得られなかったからだ。毎日、毎日、朝早くに起きて家事をこなし、慌ただしくパートへ行き、帰ったらまた家事をやらなければならない。夫が遅くに帰ってきて、睡眠時間が充分にとれないこともある。

 いつの間にか鏡に映る自分は歳をとって、母にそっくりになっていた。友人とはもう何年も会っていない。そんな生活に嫌気がさして、一体何のために生きているのだろう、と考えたこともあった。

 それなのに夫は週末になると飲み会へ行き、不倫までしている。

 ——ただ慰謝料をとるだけじゃ、足りない。

 夫と不倫相手に300万円ずつ慰謝料を支払わせることができたとしても、合わせて600万円だ。妊娠して会社を辞めてから25年間も、精神的にも肉体的にも苦痛を味わってきたことを考えると少なすぎる。子供のためだったことを差し引いても、やはり少ない。

 ——もっと、何か……。

 画面をスクロールしていると、ある記事で手が止まった。

『嫌いな人と、簡単に縁を切ることができます』

 法律や裁判の記事が並ぶ中に『おまじない』と書かれた記事がある。

 何となく気になりページを開くと、着物姿の若い女性が、白い布に包まれた赤ちゃんを抱いている絵が目に飛び込んできた。

弥咲姫やえひめという女性にまつわる呪物。弥咲姫の夫は、他の女性と失踪したそうだ。絶望した弥咲姫は赤子を抱いて崖から飛び降りた。発見された時、弥咲姫と赤子の目は大きく見開かれており、何度も閉じさせようとしたが、決して閉じることはなかったと言われている。』

 読んでいる内に眉間に力が入った。

「かわいそうにね……。生まれたばかりの頃が1番大変なのに。そりゃあ、死にたくもなるわよね」

夫の顔が脳裏に浮かんで、思わずため息をついた。

「いつの時代もクズは、いるってことか。えーと……『この呪物は弥咲姫と赤子の、骨と髪の毛を粉にしたものを、ガラス玉に封じ込めたものです。』え……? 本物の骨と髪の毛が入ってるってこと?」

 画面には呪物の写真がある。アクセサリーになっているようだ。シルバーの、ネックレスと指輪とイヤリングには、漆黒のガラス玉がついている。そのガラス玉の中に、骨と髪の毛が入っているということなのだろう。

「本当だったら、ちょっと怖いな……」

 値段は4万円と書いてある。呪物というものの相場は分からないが、シルバーのアクセサリーと考えると、普通の価格のような気もする。どちらにしても、気軽に試せる金額ではない。

「うーん……。もう少し安かったら、買ったかもね」

 諦めてページを閉じようとした時——下の方にクチコミ欄があることに気がついた。

『パワハラ上司と縁を切ることができました。ありがとうございました!』

『僕をいじめていた人たちと縁が切れた! この呪物は本物です。』

『主人と不倫相手の縁を切ることができました。弥咲姫さまに感謝しています。』

 たくさんの感謝のコメントが並んでいる。

「本物……なのかな……」

 一度はやめておこうと思ったものの、コメントを読んでいると心が揺れた。

 ——みんな、嬉しそうだな……。

 慰謝料をもらって離婚しただけでは、心が晴れないのは分かっている。我慢ばかりしてきた25年を返してほしい。それができないのであれば、苦しい思いをさせたい。

 それに、夫への愛情はないとはいえ、別れた後に不倫相手と楽しく暮らすのは許せない。せめて2人を引き離しておきたいと思った。ひとりぼっちになれば、夫も少しは反省するだろう。

 ——みんなやってるんだから、私も。

 諒子は『購入』を押した。


 届いたアクセサリーは、思っていたよりも高価なものに見えた。持ち上げてみると、しっかりとした重みを感じる。

「うん。これなら50代の私がつけていても、おかしくはないわね。安っぽいメッキのアクセサリーが来たら、どうしようかと思っちゃった」

 テーブルの上に置かれた箱の中には説明書が入っている。

『願いが叶うまでは、なるべくアクセサリーを身につけておくようにしてください。その方が効果があります。そして二拍手の後で、まじないの言葉を唱えてください。効果が現れるまで根気よく続けましょう。皆様のいらぬ縁が一日も早く切れますよう、心よりお祈り申し上げます』

「神社でお参りをする時みたいに、二拍手をして、まじないの言葉を唱えたらいいってことか。それくらいなら、仕事の休憩時間とかにもできそうね」

 テーブルの上に鏡を置いて、ネックレスをつける。

 ——アクセサリーを買うのは久しぶりね。

 いつもと違うアクセサリーを身につけた自分を見ると、頬が緩む。シルバーのチェーンに漆黒のガラス玉がついたネックレスは、思っていたよりも存在感がある。結婚指輪を外して呪物の指輪をはめた後、右の耳にイヤリングをつけた。

 そして最後に左の耳にイヤリングをつけた瞬間——視界が、ぐらりと揺れた。

「あれ……? なに……?」

 こめかみの辺りが脈打つように痛み、息苦しさも感じる。

 座っていられなくなった諒子は、なんとか寝室へ移動して、ベッドに寝転がった。


 外が薄暗くなっても、諒子は起き上がることができない。

 急に体調が悪くなった理由をずっと考えていたが、呪物を身につけたこと以外は何も思い浮かばなかった。

「これってやっぱり、呪物が本物ってことなのかな……」

 左手の薬指にはめた指輪を眺めていると、バタン、とドアが閉まる音がした。夫が帰ってきたようだ。リビングの方で夫が何かを言っているのが聞こえる。

 ——もう帰ってきたんだ……。

 いつもは遅いくせに、体調が悪い時に限って早く帰って来るなんて。夫はいつもタイミングが悪い。たまに、困らせようとして、わざとやっているのではないかと思うことがある。

 諒子はため息をつき、目を瞑った。頭痛は治まったが、まだ身体がだるくて仕方がない。

 しばらくすると足音が近づいてきて、ドアが開いた。

「電気もつけないで、何やってんの?」

 夫は不思議そうな顔をして言う。

「ちょっと体調が悪くて……横になってたの」

「風邪?」

「どうだろう、分かんない……」

「ふうん。じゃあ俺は、外で飯を食ってくるよ。作れないだろ?」

 夫は言い終わるとすぐにドアを閉めて、そのまま出掛けて行った。

 ——私に、何か食べるか? とは訊かないのね。

 慣れているはずなのに無性に腹が立った。「大丈夫か?」の一言すらなかったのだ。夫は妻の体調など、どうでもいいのだろう。

 諒子は思わず夫の枕を鷲掴みにして、壁に投げつけた。

 前は息子の顔を思い出して我慢していたが、その息子は成人して、もう家を出てしまっている。我慢をする必要がなくなると、苛立ちを抑えることができなくなるようだ。深呼吸をしても、なかなか怒りがおさまらない。

 ——そうだ。おまじないの言葉……。

 諒子はベッドの下に隠しておいた箱を引き出して、フタを開ける。

 まじないの言葉は、白い和紙に筆で書かれているようだった。一枚ずつ手書きをしているのだろう。

 そんなに難しい呪文ではないが、諒子は何度も何度も読み返した。目を通すたびに、心が軽くなって行くような気がしたからだ。

 夫に見つからないように箱をまたベッドの下に戻した後も、仰向けに寝転がり、眠くなるまでずっと、まじないの言葉を唱え続けた——。


 パート先でも時間を見つけては、まじないの言葉を呟く。誰かに聞かれては困るので、建物の裏で、小さな声で唱えた。

 「やえひめ……ねがい……ぎりに…………じょうじゅ……」

 やはりまじないの言葉を唱えると、心が落ち着く。身体中に回った毒が、少しずつ抜けて行くような感じがする。

 次の休憩時間もまたここへ来よう、と思いながら建物の中へ入ろうとした時——携帯電話が鳴った。表示されているのは知らない番号だ。

「はい……」諒子がおそるおそる電話に出ると、救急病院からの電話だった。

 夫が怪我をして、救急病院へ運ばれたらしい。詳しい話は病院ですると言われ、諒子は急いで病院へ向かった——。


 諒子が病院へ行くと、すぐに治療室へ案内された。

「ちょうど治療が終わったところなんですよ」

 看護師にそう言われて中へ入ると、診察台に寝かされた夫が、青白い顔して唸っていた。右足のひざから下は白いギプスで固定されている。

すねの、この辺りにヒビが入っていました」

 医師は脛の真ん中あたりを指さして言う。

「今はヒビが入っている状態ですが、動かすと折れてしまうことがあるので、固定しています。それで……ご主人は帰ると言っているのですが、それでよろしいですか?」

「え……?」

「ご主人はマンション住まいでエレベーターがあるから大丈夫だ、とおっしゃっていたのですが、奥さまが1人でご主人のお世話をすることになるんですよね? 女性が体格差のある男性を支えるのは大変だと思うので、心配になりまして……」

 医師は眉を下げて小首を傾げる。本当に心配しているのだろう。

「あ……入院でお願いします!」

 力が入りすぎて声がうわずった。それでなくても、毎日家事を1人でやりながら仕事もして疲れているのに、動けない夫の介護までするなんて、冗談じゃない。諒子は、ぐっ、と奥歯を噛み締めた。

「うぅ……足が……」

 夫は目を瞑ったままで唸っている。入院することになった、ということには気づいていないようだ。

 ——痛み止めを打ってもらっているだろうに。大袈裟ね……。

 諒子は小さく息をついた——。


 夫が入院した翌朝。パートが休みだった諒子は、久しぶりに目覚まし時計を使わずに起きた。

 いつもなら休みの日でも7時頃には起きて、夫の朝食を作ったり、家事をしなければならないが、夫が入院している間は自分のことだけをすればいいのだ。

 着替えた後にコーヒーを淹れて、諒子は椅子に座った。時計の針は10時15分を指している。

「あぁ〜幸せ。いつもこうだったらいいのに」

 諒子はコーヒーを一口飲んで、ほうっ、と息を吐く。

 夫は脛の骨にヒビが入っているだけなので、1週間ほどで退院するかも知れない。それでも諒子は、自分だけの時間ができたことが、嬉しくて仕方がない。

 今日は何をしようか、と考えながらコーヒーに口をつけようとした時、ふと指輪に目が行った。

「あれ……? どこかにぶつけたかな……」

 漆黒のガラス玉に、うっすらと白い亀裂が入っている。しかし、大切に扱っていたので、ぶつけたりはしていない。

「あ……。もしかして、おまじないが効いたとか?」

 夫が怪我をしたのと同時に、呪物にヒビが入ったのだ。まじないが効いたとしか思えない。

「やっぱり効くんだ。……あはは、楽しくなってきちゃった。トラックに積まれていたパネルが落ちてきたって聞いたけど、どんな顔をしていたんだろう。怖かったでしょうね。あはははは」

 諒子は、パン、パン、と掌を打ち合わせた。

「弥咲姫さま、ありがとうございます。でも、まだ足りないんです。弥咲姫さまなら、分かってくださいますよね、私の気持ち……」

 諒子が指輪を自分の頬に当てると、黒いガラス玉が、ピシッ、と音を立てた——。


 入院している夫の着替えを持って、諒子は病院へ向かう。

「はぁ……めんどくさい。洗濯室へ行って、自分で洗えばいいのに」

 何度もため息をつきながら病室の前に着くと——女性の笑い声が聞こえた。

 ——若い女性の声に聞こえる。もしかして、不倫相手が病院にまで来ているの……?

 諒子は病室へ入り、勢いよくカーテンを開ける。以前の自分ならこんなことはしなかっただろうと、自分の行動に少し驚いていた。

「うわっ! なんだよ、びっくりするじゃないか」

 夫も見知らぬ若い女性も、顔を引きらせて諒子を見上げている。

「普通にカーテンを開けただけでしょ。どうして驚くの? 何か、都合が悪いことでもあった?」

 諒子は笑顔を作って、首を傾げる。

「いや、そうじゃないけど……」

 平静を装っているが、夫のこめかみには汗が滲んでいる。相当焦っているのだろう。吹き出しそうになるのを諒子は必死に抑えた。

「それで、こちらの方はどなた?」

 諒子は女性を見る。

「同僚だよ。心配して見舞いに来てくれたんだ」

「木嶋ゆなと申します」

 ——やっぱりこの女が『ゆな』なのね。

 笑顔を崩さずに諒子は「お世話になっております」と言う。一瞬だけ、ここで2人の関係を問い詰めてやろうか、という思いが過ったが、ヒビが入った指輪が目に入ると、そんな思いは消えていった。

 ——こんなに冷静でいられるのは、弥咲姫さまのおかげね。ここには他の患者さんたちもいるから騒ぐのはよくないし、私には弥咲姫さまがついているんだもの。無駄な体力を使う必要はない。

 しばらくすると、ゆなは何ともないような顔をして夫と話し始めたが、夫は顔を引き攣らせたままだ。そして額全体に汗をかいている。

 ——焦るくらいなら、こんな所にまで呼ばなかったらいいのに。バカみたい。

 当たり障りのない世間話をしている夫とゆなを、諒子は冷めた目で見下ろした。歳が離れている2人は、どう見ても親子にしか見えない。それに夫は、どこにでもいる普通のおじさんだ。なぜ若い女性が、わざわざ50代の夫と不倫をしようと思ったのか。考えてみても、諒子には分からなかった。

 持ってきた夫の服やタオルを棚に入れている間も、2人は諒子に話を振ろうとはしない。それどころか、諒子の方を見ようともしなかった。

 ——ふうん、2人とも反省はしていないようね。それなら私も、自分のことだけを考えよう。

 使用済みの服が入ったビニール袋を掴んだ諒子は、病室を出た。


 建設会社の事務所で入力作業をしている間も、周りに人がいなくなる度に、諒子はまじないの言葉を呟く。病院で夫と不倫相手が一緒にいるところを見てから、早く縁を切りたいと思う気持ちが強くなっていた。

 それに、呪物にヒビが入ったことで夫が怪我をしたのなら、割れた時はどうなるのか。説明書には書いていなかった『願いが叶う時』がどういったものなのかが気になる。

 今までよりも強く願いを込めて、諒子はまじないの言葉を唱えた。


 同僚のイズミとユリコは、長机で伝票の整理をしながら諒子を見つめる。

「諒子さんて、最近ずっと何かを呟いてるよね。イズミさんは席が近いから、何を言ってるか聞こえるんじゃない?」

「そうね。冬至がどうとか聞こえたから、挨拶状の文面でも考えてるのかなと思っていたんだけど」

「あぁ、そういえばそろそろ準備をしないといけない時期かぁ。今時、挨拶状なんて。とは思うけど、仕事だから仕方ないわよね」

「諒子さんが考えてくれているなら、今年はそれを使わせてもらいましょうよ。毎年、同じ文面を使い回しもどうかと思うし」

「そうね」

 

 諒子が熱心にまじないの言葉を唱えるようになったのには、もう一つ理由がある。怪我をしてから一週間が経ち、入院していた夫が家に帰ってきたのだ。


 諒子がパートを終えて家へ戻ると、夫はソファーに寝転がり、携帯電話をいじっている。

 ——どうせ、家のことは何もやってないんでしょうね。

 そう思いながらベランダを覗くと、予想通り、洗濯物は干しっぱなしだ。

 諒子はソファーの前にあるローテーブルに目をやった。するとテーブルの上には、コンビニのビニール袋が置いてある。

 ——足が痛いから、ってお茶や新聞を取らせるくせに、コンビニへ行くことはできるのね。

 ため息をつきながら、諒子は洗濯物を取り込む。

「おい、飯は準備してあるのか?」背後で夫の声がした。

「……今帰って来たんだから、すぐには出来ないわよ」

「昼飯が少なかったから、腹が減ってるんだよ。洗濯物を畳むのは後で出来るんだから、先に飯にしてくれ」

 ——本当に、面倒くさい……。

 あなたが何もしないでゴロゴロしている間、私は働いていたんだと言いたいが、言うと揉めるので、諒子はぐっと我慢した。何よりもう夫と会話をしたくない。

 諒子が夕飯を作っている間も、夫はソファーに寝転がったままだ。夫はお笑い番組を見ながら、時折笑い声をあげる。

 ——ソファーに座っていても、洗濯物くらい畳めるでしょ。

 夫の笑い声が聞こえる度に、包丁を持つ諒子の手に力が入っていった。キャベツが切れるのと同時に、木のまな板の表面にキズが増えていく。

「やえひめ……こいねがい…………たいがんを……たまへと……かしこみかしこみ……」

 諒子は無意識に呟いていた。どんなにイライラしていても、まじないの言葉を唱えている間は心が落ち着く。

「……じょうじゅ…………たまへと……かしこみもおす……」

 突然耳元で、パン! と音がして、まな板の上に黒い破片が散らばった。

「え……?」

 両耳のイヤリングを外してみると、片方のガラス玉にはヒビが入り、もう片方のガラス玉は無くなっている。

「すごい。本当に、割れた……」

 イヤリングを持つ諒子の手が震えた。

「すごい。すごい……! これできっと、願いが叶う……!」

 両手を合わせてイヤリングを握りしめた時——ガシャーン! とガラスが割れる大きな音が部屋の中に響いた。

「わっ、何?」

 諒子が振り向くと、ソファーの横にある掃き出し窓が割れていた。上部のガラスは完全に無くなり、下半分にはガラスが残っている。尖ったガラスの先端は部屋の灯りを反射して、ギラリと輝いた。

「びっくりしたぁ……。なんで急に割れたんだ?」

 夫はソファーから立ち上がり、窓へ近付いて行く。床には割れたガラスが散乱していて、夫が足を進める度に、チャリ、カチャ、と音がした。

「おい、ほうきか何か——うわっ!」

 ガラスで足を滑らせた夫が窓の方に勢いよく倒れ込む。その姿が、諒子にはスローモーションのように見えた。

 夫の身体が一瞬、宙に浮いた。

 前に突き出した右手が刃物のように尖った窓ガラスに刺さり、腕と同じ色をしたものが窓の向こう側へ飛んで行く。

 あまりにも勢いよく飛んだので、諒子の目はそちらを追った。

 「何」と思う間もなく、今度は夫の絶叫が響き渡る。その声に、ハッとして、ようやく飛んで行ったのが夫の手だと理解した。

 尖ったガラスが赤く濡れて、鈍い光を放っている。

 ライトグリーンのソファーに点々とついた赤い染みは、夫の血が飛び散ったものだ。

 諒子はおそおそる、倒れ込んで呻き声を上げている夫に近付いた。夫は右の手首を握りしめている。その先には赤ワインを溢したような血溜まりがあり、少しずつ広がっていた。

 じわじわと広がる赤は、ライトグレーのカーペットも少しずつ赤へ変えていく。その様子を、諒子は茫然と見下ろしていた。

「うぅ……う……」夫は唸るだけで、話すこともできないようだ。苦痛に歪んだ顔からは、じっとりと油汗が滲み出ている。

 ——人間って、どのくらい血を失ったら死ぬんだろう……。

 このまま救急車を呼ばなければ——諒子はしばらくの間、痛みに悶え苦しんでいる夫を見つめていた。ただ、マンションの防犯カメラを確認されると、自分が家にいたことはすぐにバレてしまう。このまま放置すると、なぜ救急車を呼ばなかったのか、と言われてしまうだろう。

 諒子は、夫が苦しむ姿を見られたのだからこれでいい、と思い直して、救急車を呼んだ——。


 夫は2ヶ月ほど入院することになるだろう、と医師は言った。

 切断された手は手術で繋ぎ合わせることができたが、動くようになるかどうかは分からない。さらに、元々ヒビが入っていた脛の骨は、倒れ込んだ時に完全に折れてしまったようだ。退院した後もリハビリに通うことになるが、とりあえず2ヶ月間はまた自由な生活が送ることができる、と諒子は喜んだ。


「あぁ、1人って楽でいいわぁ〜」

 諒子は1人きりの朝に幸せを感じていた。休みの日は寝たいだけ寝て、好きなものを食べて、家事も自分の分だけならすぐに終わるので、急ぐ必要はない。

「今日は休みだし、服でも見に行こうかな」

 結婚してからは、化粧品はドラッグストアで。服はネットショッピングで。独身の時は2ヶ月毎に行っていた美容院も、半年に1回にしていた。もちろん自分がそうしたかったわけではなく、家族のために節約をしていたからだ。

 それなのに夫は、諒子のことを家政婦扱いしたうえに、不倫をしていた。もちろん不倫相手にお金を使っていたのだろう。もう我慢をする必要はないと思った諒子は、独身時代のように、自分のために金や時間を使うことにした。

 美容院で教えてもらった通りに髪をセットして、百貨店の化粧品売り場で習ったメイクをする。前は、鏡に映る疲れ切った自分を見るのが嫌だと思っていたけれど、今は楽しい。

 会社で同僚たちに「綺麗になったね」「若返ったよ」などと言われたことを思い出すと、頬が緩んだ。


 諒子が百貨店の3階にあるブランドショップに入ると、上品な印象の店員が声をかけてきた。

「今日は何をお探しですか?」

「ちょっとワンピースが見たくて」

 そう言いながら、諒子は近くにあった黒のワンピースに手をかける。

「黒もいいですけど、こういう色もお似合いになると思いますよ」

 店員はライトブルーのワンピースを諒子に見せた。

「うーん……。モデルさんなら似合うかも知れないですけど、私にはちょっと派手じゃないですか?」

 諒子が持っている服は、ほとんどが黒やカーキ色だ。子供が生まれてからは、汚れが目立たない服ばかり選ぶようになった。

「いえ、そんなことはないですよ。鏡がありますから、合わせてみてください」

 店員に案内されて鏡の前に移動した。

「ほらやっぱり。お似合いですよ」

 諒子は鏡の中の自分をじっと見つめる。たしかに、意外と似合っていると思った。今着ている紺色の上着よりも、ライトブルーのワンピースの方が、顔が明るく見える。

「そうね。たまにはこういう色にチャレンジしてみてもいいかも。でも、派手じゃない?」

「派手じゃないですよ。たしかに明るい色は勇気がいると言われる方が多いですけど、お客様が着ると、すごく上品な印象になります。お似合いですよ」

 店員はにっこりと微笑んだ。

「本当? じゃあ……買おうかな」

 褒められると悪い気はしない。諒子は鏡の中の、いつもと違う自分を見ながら、はにかんだような笑みを浮かべた。



 そして2ヶ月後——。夫が家に帰ってきた。

 夫は以前にも増して、自分の身のまわりのことを諒子にやらせる。自分は寝室のベッドに寝転がったままで、大きな声で諒子を呼んでは新聞や食事を持って来いと言う。

 寝室を出てリビングに戻った諒子は、クッションをソファーに投げつけた。

「何なのよ! せめて、ありがとうくらい言えないの?」

 2ヶ月の間、独身時代のような生活を送っていた諒子は、夫の横柄な態度が許せない。夫が帰ってきたその日の内に、もう無理だと思った。

「不倫相手の家にでも行けばよかったのに。……あぁ、さすがに捨てられたのかもね。いつ治るか分からないから、仕事も辞めることになるかもしれないし。でも、私ももういらないんだけど」

 ソファーに座ってドラマを見始めても、イライラした気持ちが抑えられない。自分が貧乏ゆすりをする、その振動にさえ腹が立つ。

「……やえひめみまえの……」

 諒子は、1人の生活を楽しんでいた間は唱えなかったまじないの言葉を、また口ずさんだ。
 


 朝早くに目を覚ました諒子は、いつもより時間をかけて、丁寧にメイクをした。仕上げに新作のリップを塗って、お気に入りのライトブルーのワンピースに着替える。

 諒子が寝室の扉を開けると夫も起きていた。横を向いて寝転がり、携帯電話の画面を眺めている。

「今日も家にいるの?」

 諒子が言うと、夫はゆっくりと身体を起こした。

「こんなんじゃ、どこにも行けないだろ……。手も脚も動かないんだぞ……? それに、体調も悪いし——」

「ふうん、私はパートに行く時間だから。じゃあね」

「え。おい、ちょっと待てよ! 俺の飯はどうなるんだよ! 病院にも行きたいのに!」

 ——知らないわよ、自分でどうにかすれば?

 諒子は聞こえないふりをしてドアを閉めた。夫はまだ寝室の中で叫んでいる。

 ——私が、体調が悪い時に何かをしてくれたことはないくせに、自分がつらい時は助けてもらえると思っているなんて。

「なんでこんな奴と結婚したんだろう」

 口に出すと、胸の中にある黒いもやが、すぅっと消えていくような感じがした。


 家の近くにある喫茶店に入った諒子は、周りに聞こえないくらいの小さな声で、まじないの言葉を唱える。

 パートに行く、と夫に言ったのは嘘だ。ネックレスについている漆黒のガラス玉には、すでにヒビが入っている。もう少しで石が割れるはずだ、と諒子は考えていた。

 テーブルに両肘をつき、顔の前で手を組む。そして、今まで夫に対して感じてきた不満を1つずつ思い浮かべながら、まじないの言葉を唱えた。

 いつしか名前ではなく「おい」と呼ばれるようになったこと。当たり前のように家事を全部押し付けられたこと。子供の面倒を見ようとしなかったこと。そのせいで忙しくなり、自分の身なりに気を使う余裕がなかったのに、女を捨てていると言われたこと。「ありがとう」と言われなくなったこと。体調が悪くて寝ていたら、嫌な顔をされたこと。不倫相手と仲良く話をしている姿が脳裏に浮かんだ。

 顔の前で組んだ手に段々と力が入り、爪が指に食い込む。

 ——お願いします、弥咲姫さま。愚かな夫に制裁を。

 次の瞬間、胸元で、パン! と弾ける音がして、黒い粒が机の上にパラパラと落ちた。

「あ、割れた……」

 ネックレスを外してみると、ガラス玉が無くなっている。

「……ありがとうございます。ありがとうございます、弥咲姫さま……!!」

 諒子は目を瞑り、両手でネックレスを、ぎゅっと握りしめた。


 喫茶店を出た諒子は映画館へ行き、観終わるとセレクトショップに入った。服やアクセサリーを一通り見た後は、新作のバッグを眺める。機嫌良さげに店内を歩く諒子に、店員は次々と商品を勧めてきた。

 ——前の私は疲れ切った顔をして、いつ買ったか覚えていないような、くたびれた服を着ていたのよね。あの頃の私がここへ来ても、こんなふうに声をかけられることはなかったんだろうな……。

 そんなことを考えながらバッグを選んでいると、携帯電話が鳴った。知らない番号だ。

「はい」諒子が電話に出ると、相手は警察だと名乗った。

 諒子が家を出た後、夫は隣にある建設中のビルの前で、タクシーを待っていたらしい。そこへ上層階から鉄板が落ちてきたのだそうだ。

「遺体の確認をしに来てほしい」と警察は言った。

「ふふ……あははは。事故なら賠償金も入るじゃない。これも全部、弥咲姫さまのおかげだわ。本当に、ありがとうございます」


 数日後——。諒子は菓子折りを持って、会社の事務所へ入る。しばらくの間、休ませてもらうことを、同僚たちに直接伝える為だ。

 夫の死亡保険金や事故の賠償金で暮らしていけるが、ひとりぼっちにならないように、諒子はパートを続けることを選んだ。

「大丈夫? ゆっくり休んでいいんだからね」

「何かあったら連絡してね、いつでも話し相手になるわよ」

 諒子と仲良くしている同僚のイズミとユリコは、涙を拭いながら言う。

「ごめんね。手続きが山ほどあるし、夫の事故の裁判もあるから、しばらくは来れないと思うの」

「いいのよ、気にしないで。諒子さんが抜ける分は、みんなで分担すればいいんだから」

「そうよ。無理はしないでね」

「うん。ありがとう……」諒子は弱々しく答える。「すみません。よろしくお願いします」と事務所の中を見まわしながら頭を下げると、他の同僚たちも口々に「大丈夫だから、無理をしないでね」と、諒子に声をかけた。眉尻を下げ、ハンカチを目の下に当てる者もいる。

 ——夫が死ぬと、こんなに優しくしてもらえるのね。

 諒子は静かに頭を下げ、事務所を後にした。


 諒子が事務所を出た後、イズミとユリコは給湯室でメイクを直し始めた。諒子と話しながら何度も目の下を擦ったので、ファンデーションが落ちてしまったのだ。

「大変ね、諒子さん。これからどうするんだろう」

 イズミは鏡で目元を見ながら言う。

「まぁ保険金が入るだろうから、生活には困らないんじゃない?」

「保険金かぁ。いくら入るんだろうね。……でもさぁ、トラックに積まれていたパネルが落ちてきて脚を骨折したって聞いたのって、3ヶ月くらい前だったと思うのよ。それから割れた窓ガラスで手首が切断されて、最後はビルから鉄板が落ちてきて亡くなるなんて……。ちょっと、異常じゃない?」

「まぁねぇ。何だか呪われたとしか思えないくらい、悲惨よね」

「そうでしょう? もしかして……諒子さんが呪っていたとか。前に旦那さんが不倫しているかも、みたいなことを聞いたじゃない?」

 イズミが言うと、ユリコは目を大きくして、両手で口元を覆った。

「本当に、そうなのかも……。諒子さんがずっと何かを呟いているのは、挨拶状の文面を考えているんじゃないかって話をしたの、覚えてる?」

「あぁ、真面目だねって話したやつね」

「そうそう。この間、年末調整の書類を回収した時に見たんだけど、旦那さんの名前が『燈司とうじ』だったのを思い出したのよ。挨拶状の『冬至のみぎり』じゃなくて、『燈司の身を斬る』の意味だったのかな、と思って」

「まさか。呪いの呪文みたいなものをずっと呟いていたってこと?」

「そうだったら怖いよね。……でも、本当にそんなものがあるなら、教えてほしいかも」

「うん。私もそう思ってた。聞いたら教えてくれるかな」

「どうだろう。ユリコさんは、呪いたい人がいるの?」

「もちろん旦那よ。最近帰りが遅いなと思ったら、パパ活をやってるみたいなの。家のことを全部私に押し付けて自分だけ遊ぶなんて……冗談じゃないわ。呪いなら死んでも罪にはならないでしょう?」

「そうよね。うちも同じようなものよ。やっぱり、諒子さんに聞いてみようか」

 しばしの間、見つめ合ったイズミとユリコは、口元にだけ歪んだ笑みを浮かべた。


 会社を出た諒子は、すぐ近くにある街路樹に寄り掛かる。

「……くふっ……ははは」我慢できずに吹き出した。

 会社の人たちは、諒子が悲しんでいると信じきっていた。女優にでもなったかのようだった、と思うと笑いが止まらない。実際には、夫の遺体を確認しにいった時も、悲しむ気持ちは一切なかったのだ。

 建設中のビルから落ちてきた鉄板は夫の左肩に落ちて、そのまま身体を半分に切り裂いていた。安置室で、警察官は遺体袋を少しだけあけて、夫の右側の顔を見せた後「これ以上は見ない方がいい」と言って、目を伏せた。

 ——笑いそうになるのを我慢するのが、大変だったのよね。

 涙を流すことができなかった諒子は、ハンカチで顔を隠して誤魔化していた。夫を亡くして悲しんでいる妻を演じた方が、諒子にとっては都合がよかったのだ。


 大きく息を吸い込みながら空を仰ぐと、縁切りの呪法について書かれていたことが脳裏によみがえった。

『弥咲姫は手に刀をくくりつけていた。それはあの世で、夫と不倫相手を苦しめるためだったのではないか、と言われている。』と書いてあったのだ。

 諒子は夫の左手が切れて飛んでいくところを見た時に、何となく、切れ方が不自然だと思ったことを思い出した。固定されているガラスで切ったにしては、やけに勢いよく手が飛んで行ったのだ。それに夫が死んだ時も、身体が真っ二つになっていた。

「きっと、弥咲姫さまが刀で罰を与えてくださったのね」


 諒子の指には新しい指輪がはめられている。左手を持ち上げると、漆黒のガラス玉が鈍い光を放った。

「そういえば浮気相手の名前、なんだったっけ? ゆな……だったかな?」

 歩き出した諒子は両手を広げて、舞うようにくるりとまわる。そして、パン、パン、と掌を打ち合わせた。

「やえひめみまえのみたまに こいねがいもうしたまう ゆなのみぎりにて われのたいがんをじょうじゅなさしめたまへと かしこみかしこみもおす」

 指輪についている黒いガラス玉が、ピシッ、と音を立てた——。 

 

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