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逃げてもいいというけれど、どこに逃げたらいいんだろう

人生で割と逃げてきた、aoikaraです。

逃げるというよりかは、立ち向かってみたけど、ダメで倒れて気を失って、そしてら周りには人がいなくなってた、みたいな感覚。能動的に逃げたというより、心の限界で体が強制終了させられような。


つらいことに直面した人に対して、立ち向かうよりも、逃げていい、という論調がある。私もそう思う。別に全てに闘わなくていい。勝たなくていい。負けていい。全然、逃げていい。

でも、どこに逃げたらいいんだろう。

逃げていい、逃げたらいいと言うのは簡単だけれど、果たして逃げ場所はあるんだろうか。どこにも自分の居場所がない、逃げ場所がないから逃げられない人もいるだろう。


当人が、「逃げ場所がない」と思い込んでしまっているだけ、という場合もある。第三者から見ると、逃げ出す手段はたくさんあって、逃げ場所もたくさんあって、だから「逃げたらいい」と伝えることもある。きっと「具体的にあんな方法や、こんな方法があるよ」と伝えることが、“逃げる”ことにつながるんだろう。

でも、教えてくれる人が現れるとも限らない。基本的には自分で逃げ場所を考えなければならない。逃げなければならないほど追い詰められているとき、自分の状況を冷静に把握して、自分のためにどう動くべきか適格に判断できる人はどれくらいいるのだろう。

だから、つい、手を差し伸べてくれる人の方に逃げる。でも、弱っている人に手を差し伸べる人が、まるっきり悪意や下心がないとも言いがたい。判断力が鈍っている心につけいる人もいる。


逃げる方法がわからず、逃げたがっている人が、他人の居場所を奪おうとするかもしれない。誰かの何かを奪うのは、必ず相手を傷つける。傷つけた人は、かつて傷つけられた人かもしれないけれど、もう誰も傷つけられた人とは思ってくれない。傷つけた人、になる。逃げてもいいなんて言わない。閉じ込めておこうとされる。

だから、逃げたくて方法がわからなくても、決して誰かを傷つけず、誰かの居場所を奪おうとはしない。たぶん、逃げ方として、傷つける方法は違うから。

自分を傷つけられて、自分を大切にしてもらえなくて、それでも誰も傷つけず、自分を愛するなんて、できるのだろうか。きっと、自分がもらったものはゼロではないはずだから、大切にしてもらっただろう経験を大切にして、返していくようにすれば、きっと自分にも返ってくるはず。


書きながら、とても綺麗事だなと思うのだけれど、逃げたいと思う人が逃げられる場所があるように、それぞれの人にとっての居場所があるように、と思う。誰にとっても。

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