見出し画像

「僕のことを終わった選手と思わないでほしい」 ドーハ世界陸上800m金メダリスト、ドノバン・ブレイジャー

  ブダペスト世界陸上の男子800mのエントリーリストに、ドノバン・ブレイジャー(2019年ドーハ世界陸上800m金メダリスト)の名前はない。
 昨年のユージーン世界陸上後に踵の骨を除去する手術を受けたため、練習復帰はしているが今季はレースに出る予定はない。

 時々「元気だよ」と連絡はくるが、どの程度走れているのか分からないため、少し心配だ。だから中距離種目を見るたびにドノバンの顔が脳裏をチラつく。
「走れているんだろうか」「どのくらい戻っているだろう」といつも考えてしまうのは、去年のユージーン世界陸上での出来事が今も心に棘のように刺さっているからだ。

 女子の800mのレースを一緒に見ていたときに、ドノバン・ブレイジャーがこう言ってきた。
「僕のこと『終わった選手』って思わないでほしい」
 突然、まったく、なんの脈絡もなく。
「え?」
 ポカンとした表情をドノバンに向けると、彼は泣きそうな顔でこう続けた。
「他の人がそう思っていても、あなたにはそう思われたくないんだ。僕の復帰を待っていてほしい」
 こちらは何がなんだかよく分からない。
「どうしたの、急に。誰かに何か言われたの?」
「僕を信じてほしい。あなたには終わった選手って思われたくないんだ」
「思わないよ、どうしたの?」
 そう尋ねたら、違う質問をしてきた。

「僕たちが最初に出会った日のことを覚えてる?」
 突然の話題変換に脳も思考回路もついていけない。
 しかもなんですか、その、彼女が彼氏に「初めてのデートの日を覚えてる?」みたいな質問は。
 最初に出会った日。
 覚えていないので思い出せない。そういうことを聞かれた彼氏が必死で思い出そうとするように、私も記憶をひねり出して、当てずっぽうで「2016年のロンドンDLかな」と答えたら、案の定、違った。彼氏だったら彼女に怒られて、何かプレゼントを買わないといけないレベルの喧嘩になるかもしれない。
 
 ドノバンは泣き顔から笑顔でこう教えてくれた。

「2015年の全米選手権で選手村のホテルで初めて会ったんだよ。その時に『未来のスター選手!会えてうれしい』って言ってくれたんだよ。僕はそれがとてもうれしかった」
 記憶を紐解いて紐解いて、なんとなくおぼろげに思い出した。
 確か学生の大会で驚異的なタイムで勝ったのを見て、これは楽しみな選手だなと思ったのだ。中距離向きのしなやかな体つきで、スター性がある選手だとも思った。 
 ホテルで偶然会った時に、心の声が言葉に出たのだろうか。言った本人はすっかり忘れていたけれど、言われた側はしっかり覚えていた。

「僕はすごくうれしかったんだ。だから僕のこと終わったって思わないでね」

 再び話題が戻る。

「誰かに何か言われたの?どうしたの?」と再び聞いたら、言葉を濁しながら、ポツリポツリと教えてくれた。
 東京五輪の出場権を逃し、前回大会覇者として出場したユージーン世界陸上で予選落ちしたドノバンに対し、皆、なんとなくよそよそしいと。
 おそらくどう声をかけたらいいのかわからないのでそっとしているのだと思うけれど、彼はネガティブに捉えていた。元々、人懐っこい性格なので、冷たくされているようでつらかったのだろう。
 SNSなどでも「ドノバン終わった」みたいなコメントが多数あった。本人が見ているかどうかは分からないが、弱っているときにはとても刺さるだろうなと感じた。
 余談になるけれど、SNSでスポーツ選手に対して「劣化した」とか「終わった」「詰んだ」みたいな言葉を書く人がいるけれど、自分が言われたことを考えて、書き込む前にその投稿が本当に必要なのかどうか考えてほしいと思う。

 そんな場面で超能天気な私が、たまたまスタンドにいたドノバンの隣に座って普通に話しかけたのがうれしかったのだろう。
 怪我や不調はアスリートにはありうることだ。結果が悪かったから話しかけないなんて、そんなことはしない。選手である前に、彼らも一人の人間なのだから。
「僕ね、この後、手術するんだ。踵の骨が少し出ているからそこを削るんだ。そしたら痛みがなくなって前みたいに練習できるって言われているから、待っててね」
「もちろん。私はあなたがとてもいい選手だって知ってるし、前にみたいに走れるって思ってるよ」
 そう伝えるとドノバンはにっこり笑って、「Thank you」と言いハグをしてからスタンドから去っていった。
 
 それから1年会っていない。
 来季の室内で会えるだろうか。パリには間に合うだろうか。
 私だけではない。みんなが彼の復帰を待っている。また必ず元気な姿を見せてほしい。 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?