駄文作文: 『鴨のキリトリセン』②

すごく遠い風景を一つ、覚えている。
田舎道、川沿いに歩く時、黒く白く光る川波を縫うように走る白っぽい線。鴨の家族が隊列を組んで泳いでいく。点々と続くその姿は優美で、鴨たちは地上を歩く律には永遠に追いつけない、高尚な儀式をしているように思えた。隣には会えなくなった妹がいて、律は彼女が転ばないよう手を繋ぐ。反対側の手には木の枝。幼い日の律は、意気揚々と歩いているうちに鴨のことなんか忘れて、妹と歌を歌いながら家に帰るのだ。

繰り返し思い出すので、妹がいた頃の風景というと、決まって同じシチュエーションを思い出すのだが、20年ほどあの土地に行っていないので、覚えている光景が本物なのかはわからない。ただはっきりしているのは、あの川の向こう側に僕たちは絶対に行ってはいけなかったことと、妹の愛が可愛くて、可愛くて、律は愛を絶対に守りたかった。一緒にいたかった。それを強く誓っていたことだけだった。

「愛、こっちだ、こっち」
「待ってお兄ちゃん、怖い」
妹は怖がりで引っ込み思案だった。男の友達が出来てからは、そんなところが少しうざったくなって、突き放したこともある。そんな時、愛は黙って一人で遊んでいた。妹の方が早熟だったのかもしれない。絵本なんかも気に入って読んでいた。喧嘩もしたけど、共通の敵がいると仲良くなるのは子供も同じだ。僕たちにとっては家庭が共通の敵で、僕は兄なので妹を守った。自分が喧嘩するのはいいが、愛の敵は律の敵だ。全力で敵を叩きのめした。

「お兄ちゃん、みて。虹。」
愛はよく空を見ていた。そんな時に話しかけると、決まって意味不明なことを言った。いや、言わないけど考えていた。口では「きれいねー」としか言わないが、いろいろな言葉が頭の中を巡っているのがわかった。
目前の風景を捉えているようでいて、それ以上のものを愛はその目に写していた。愛は天才だ。僕はいつでも愛が見ている世界を理解したくて、でもいつも同じものは見えなかった。

「やめて!これは絶対にいま食べちゃダメなのに!!!」
愛が泣くのは、いつも自分のルールが崩された時だった。
「今は黒いところも踏んでいいんだよ。」
愛はいつも自分でルールを持っていて、忠実にそれを再現した。まるで自分が作った自分の中の神様を信じているようだった。それは愛の中にしか存在しないはずなのに、愛を贔屓にはしなくて、愛は敬虔な信者としてとにかくその規律に従っていた。ずるは許されない。見ているのは自分だから。ストイックさは折り紙つきで、両親は頑固だと笑っていたけれど、律は単純にすごいと思った。
未来を今の手に入れたがっていたのかもしれない。もちろん、世界はそんなに綺麗じゃないので、幼かった愛は理解できない裏切りや攻撃にあうとよく悔しくて泣いていた。

でもそれでも、自分の中で折り合いをつけて、涙を流したことすらも隠して戻ってくる愛の姿は、自分よりも4つも年下の女の子であるはずなのに、凜とした表情のなかに強い意志が宿っていて、律は少し怖くなった。どんなに傷つけても、彼女の中の神様には叶わなくて、大事な妹はいつか本当に女神になってしまうのではないか、と恐れた。


目覚めると、すっきりした朝だった。
相当深く眠るだろうと思っていたが、意外と早く目覚めた。暖かい夢でも見ていた気がする。
横には2ヶ月前に出会った瑠衣がいた。

「じゃあ、また連絡しますね。」
瑠衣は頭のいい女だ。そしてモテる女ほどあっさりしている。唐突に、あと数回で見限られて会わなくなりそうだな、と思った。律の方にはまだ情熱が無い。

扉が閉まると、追い出したのは自分のくせに、一人取り残されたような気持ちになった。最近はいつにも増してこういう事に心が動かない。『付き合う』も『結婚する』も選択肢にないことが、自分でも不思議だった。強がりでなく、ある感情がすっぽりと抜け落ちている。あの男の子供だから、どこかが欠陥品なのだろうか。
廊下から部屋に戻る。いつもの箱みたいな空間。相変わらずデスクとベッドくらいしか家具はなく、もう一つの部屋はカーテンを締め切った物置部屋になっている。瑠衣が片付けてくれたデスクから、きれいに並んだ紙たばことライターを取ると、ベランダへ出た。

ゆっくり煙を吐くと、思考が上滑りしていく。女は好きだ。妹と会えない分、律は平等に女を愛し、愛でていた。しかし、誰かと濃密な関係を築くことが、どうしても苦手だった。大人になってからは、希薄な関係をいろんな人と持ってしまうが故に、殊更にそれを強く感じる。その度に此の空っぽな身体に何が詰まっているのか、とある種絶望した。仕事に以前ほどの情熱で打ち込めなくなったことも関係しているかもしれない。
こういうのは、一時的な病のようなものだとわかっているが、衝動的に身を投げたくなる。生きることが億劫すぎる。前は人と会ったり、たばこをふかしたり、女を抱いたりすれば忘れることが出来た重苦しい感覚が、いつからか這うように戻って来てこびりついて剥がれなくなった。これが歳を重ねる意味なのか。
振り返って部屋を眺めると、この郊外の1LDKが、自分であつらえたとっておきの棺桶に見えた。

私が育ったのは、海も空も近い町でした。風が抜ける図書室の一角で、出会った言葉たちに何度救われたかわかりません。元気のない時でも、心に染み込んでくる文章があります。そこに学べるような意味など無くとも、確かに有意義でした。私もあなたを支えたい。サポートありがとうございます。