駄文作文: 『鴨のキリトリセン』①

遠くで雷の声が聞こえる。カーテンは開いているのに、とても暗くて夜みたいだ。律は携帯を片手にのそのそと起き上がった。時計を見上げる。午前7時。あたりの空は暗く鈍色に光り、遠くに雷鳴が見えた。ところどころ雲の隙間から陽の光がさしていて、おもちゃみたいな街並みを照らす。隣のビルの屋上にある青々と茂った草が光って見えた。寝てしまった間に一雨あったのだろう。この雲の様子だと、にわか雨だろうか。

椅子に何とか腰掛けると、働かない頭で煙草を咥えて火をつける。何もない箱みたいな部屋に煙を吐く。その濁った空気を吸って初めて、肺がやっと呼吸を始めたように感じた。もう風呂も3日ほど入っていない。寝ていたのは3時間ほどだが、そこそこ頭がすっきりしていた。たまりきった灰皿に煙草を押し付けると、パソコンに向かいあうように椅子に座りなおす。一気に続きを打ち込み始めた。

「あ、はい。確認しました。いいと思います。読み返してみて何かあったら連絡するので、携帯はなるべく出られるようにしといてください。」
「わかりました。よろしくお願いします。」
律はフリーのライター兼小説家だ。フリーだからこそ、締め切りだけは守ろう、なんて理想は早々に崩れた。とはいえ今回はデビュー当時から二人三脚を組んでやってきた編集者の紹介で、初めての大手出版社との仕事だし、出来る限りのことをして間に合わせた。もともと筆は速い方なのだ。早めに取り組み始めることが出来ないだけで。

健さん(その馴染みの編集さんであり、本名中西健太で通称健さんである)が言うには、今回の編集の康太君(健さんはそう呼ぶ)は速読タイプで、まめに連絡を寄越すというので、言われた通り電話に出られるよう、とりあえず夜までは起きていることにした。タオルと下着だけ持って家を出る。もうすぐ16時になるが、晩夏とはいえまだまだ外は明るかった。連絡待ちの間にあんどーなつを一袋食べただけだったので、腹も減ったが、まずは銭湯だ。

3日ぶりの風呂は何とも言えず気持ちのいいものだ。熱めのお湯で近所の常連が多い『椿湯』を出ると、ちょうど健さんから着信があった。
「おう。どーだったよう、ちゃんと出せたか、康太君待ってるぞ~!」
「はは。もう出しましたよ。精査後の連絡待ちです。」
「はあ!?お前、俺の時はいつもぎりぎりの癖に、どういうこっちゃ!」
「ぎりぎり間に合ってないですもんね。いつもすんません。」
健さんは正に江戸っ子、といった感じのベテラン編集だ。顔が広く雑なところが多いが、情に厚く、特に律にとっては上京してからお世話になりっぱなしの、東京のおとんといったところで、信頼を置いていた。もう10年の付き合いになるが、未だに底が見えない。妙に切れ味のいい切り返しをしてきたり、会った時の尋常じゃない目の迫力を垣間見てきているので、只者ではないと感じている。経歴も単調ではないだろう。しかし、律は今のマイナー情報誌の編集としての立場以外特に何も知らないし、聞きもしなかった。寧ろ、逆にそういうところも好きなのであった。小説家にありがちな特性かもしれないが、謎が多く、見えていない余白が残されている人間の方が、興味をそそられる。飽き性でもあるし、あまり深く人と関わろうともしない。それでも律にとっては健さんが今一番親しくしている人間である。

「で、何か見えてきそうかい。」健さんは言う。
「いや、う〜ん。どうですかね。初めての長編小説なので、達成感みたいなものはある気がするんですが…。」
「おお!それは何かあるかもしれんね。ええええ、そのまま進んだらええぞー!したら、ね、また連絡するから。」
「あ、はい、お疲れ様です。」
いつもの通り最後の『お疲れ様です』は健さんに届いていないだろう。自由でせっかちな電話の切り方である。決まって聞かれる「何か見えてきそうかい。」の返事に、未だに律は明確な答えを返せないでいた。


私が育ったのは、海も空も近い町でした。風が抜ける図書室の一角で、出会った言葉たちに何度救われたかわかりません。元気のない時でも、心に染み込んでくる文章があります。そこに学べるような意味など無くとも、確かに有意義でした。私もあなたを支えたい。サポートありがとうございます。