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親愛なるアカじーさんへ

大人の顔色を伺って育ってきた。

ぼくの両親は子どもがハマるものをことごとく拒絶する様な人だった。

小学校2年生の時、学校では家庭用ゲーム機「DS」を持っていること、そのDSでポケモンをやるのが、イケてるグループ仲間入りの条件であった。

ぼくは父親にねだった。
父は「そんなのなにが面白いんだ」と言い、母は「くだらない」と言いながらも、次のテストで100点を取ることを条件にぼくに買い与えてくれた。

それから放課後は友だちとゲーム機を持って公園で対戦プレイをする日が多くなった。

楽しかったが、少し後ろめたい気持ちも同時に存在した。公園のベンチで手元のゲーム機に必死になる僕たちに対する大人の視線は冷ややかで、「最近の子はまったく・・・」とか「あんなのに夢中になるなんて意味わからない」とか言われたわけではないが、そう思われてるんだろうなあと、若干過剰な自意識があった。

ゲームに限らず、アニメとか漫画の話も同様で、大人に話すのはなんだか憚られた。友だちが先生にゲームの話をするのを見ると冷や汗を書いた。ぼくにはなんの影響もないのにだ。

うまく説明できないが、こういう感情を持っていた人は意外といるのかもしれない。

そのまま、大人との距離をどんどん大きくしていった僕は、親や先生に「本当の」自分が好きなことの話は一切せず、「模範的な」趣味を話す様になった。好きでもなんでもない小説の話をしたり、ゲームなんかより運動が1番楽しいとか言っていた。本当は深夜までポケモンをやりこんでいるのにだ。

そこから月日が経ち、学年が小学校5年になったある日、「アカじーさん」に出会った。

アカじーさんは、僕たちが溜まり場にしていた「赤色橋」で出会ったから「赤」「アカ」と、じーさんだったから、「アカじーさん」であり、僕らは次第に「アカジー」と呼ぶ様になった。

アカジーは年金暮らしの76歳だった。
妻に先立たれた孤独な生活に耐えかねて、散歩を始めたところ、橋の根元でたむろしてる僕らを見つけたらしい。

僕らはいつも赤色橋でゲームをしたり、漫画を読んだりしていた。現代っ子全開の僕らにアカジーは説教をするのだろう。アカジーの見た目はいかにも堅物で昭和カタギな雰囲気がプンプンするジジイだった。

アカジーと初めて遭遇した日、僕らはポケモンのカードゲームをしていた。アカジーがこっちにくる。何か言いたげな顔をしていた。眉をひそめ、白髪を撫でながら近づいてきた。

僕はその時思った。「帰りてえ」「絶対ぐちぐち言われるじゃん」と。そして、カードをポケットにしまって退散準備を始めたその時。

「それ、おれもやりたい。教えてくれないか。」

そう言った。は?と思った。
その場にいた、井上も、山崎も、浜田も思わず「え?」と聞き返した。

「いいですけど、、、これ、やりたいんでふか?」
リーダー格の井上がアカジーに聞くと。
「君たちがすごい楽しそうだから気になったんだ。こんなじじいでもできるならやりたい」と言った。

僕は衝撃を受けた。こんな大人がいるのかと。僕が知っている大人といえば、ポケモンの話をしたら「はいはい」、ゲームしてるのをみたら「外で遊べ」、アニメの話をしたらつまらなそうに鼻をほじり出しそうな勢いだった。でもアカジーは違った。

結局その日はやらなかったが、そのかわり、アカジーと僕たち4人は1時間くらいおしゃべりした。

アカジーはそのイカつい見た目とは真逆で、とても穏やかで、優しくて、説教する気さえ感じられなかった。

誘拐とか犯罪とか企んでるんじゃないかと逆に怖かったので、井上の提案で週に一度だけ、ここで1時間遊ぶことにした。アカジーも同意した。

それから僕たちは毎週水曜日の3時半から4時半までアカジーと遊んだ。アカジーはDSを持っていないので誰かが貸して対戦プレイをした。70過ぎの赤の他人のおじいちゃんとポケモン対戦をした小学生など他に居るのだろうか。

一緒にゲームをしている時、アカジーは少年のように笑った。しわしわの顔がさらにしわしわになっていた。おっとり微笑む老人のイメージとは正反対に、僕たちと同じようにギャハハと笑い、DSで遊んだ。

お爺さんなのに、少年のようなキラキラした目でゲーム機を操作するその様は、異質そのものであったが、どこか親しみさえ感じさせた。

アカジーはいろんな話をしてくれた。スーパーの惣菜が値引きされるタイミングや、散歩中見かけた太った猫の話、どれも面白かったが、戦争の話は当時の僕たちにはつまらなかった。ただ、少しだけ、平和っていいなと思った。

アカジーは僕たちの話もよく聞いてくれた。今日の給食の揚げパンが美味かったとか、気に食わないやつへの愚痴とか、将来の夢とか、最初は警戒心が強かった僕も、ちょっとだけ心を開いて、親にも言えなかった夢を話した。

アカジーはどれもこれも否定せず、真剣に聞いてくれた。僕が知っている大人はみんな子どもの話を茶化したり、「現実は甘くないよ」とか、あるいら真剣に聞こうとしない。少なくとも僕の周りはそうだった。

だから余計に、アカジーに惹かれた。

アカジーは僕たちの、ガキの、プライドを傷つけぬ様話すのも上手かった。どんな話をしてもアカジーはまずは肯定して、最小限のアドバイスに留めるだけであとは聞き役に徹してくれた。

僕たちはアカジーのことを好きになった。
でも親にはいえなかった。危ないからやめろと言われるからだ。親についた数少ない嘘の一つだった。

アカジーは不思議な人だった。今まで見たことのないタイプの大人だった。
子どもがハマっているものに関心を持ち、「俺の時代にこれ(DS)あっても絶対みんなハマっちゃうね」とか言っていた。僕たちと自分の少年時代を重ねて、決して、「最近の子供は〜〜〜」などと言わず、等身大の自分達の時代やアカジーの話をしてくれた。

僕はアカジーのおかけで、少しだけ大人に対する偏見というか、しこりみたいなものが取れた気がした。
そうだよ。僕の親世代だって、ファミコンに夢中だったじゃないか。いつの時代も子どもは新しい娯楽に夢中になって、周りの大人にため息をつかれる宿命なのだ。そう思うようになった。


アカジーとだいぶ打ち解けた。そんな頃だった。


ある日、アカジーはふっと来なくなってしまった。
次の週も、その次の週も。次第に僕たちの記憶からは薄れていき、6年生になる頃にはすっかり忘れていた。

僕たちはアカジーの住所はおろか、本名さえ知らなかった。アカジーは「76歳で、年金暮らし」としか自分のことを言わないじーさんだった。

きっと僕らの成長を感じ取って、これ以上は邪魔になると思ったのだろうか。
あるいは、通報でもされたのだろうか。

いずれにせよ、僕にとってアカジーとの出会いは小学校時代の価値観に影響を与えた、数少ないイベントとして記憶に残っている。

・・・あとがき・・・
8割がフィクションで、得体のしれない爺さんと子どもを混ぜるのはどうかと思いましたが、少なくとも僕の親やそれ以上の世代では”そういう”ことも存在していたと思うので、無理やり書きました。

大人に対する偏見や、逃避願望というのは中学生くらいまであって、大人に対してアニメの話やゲームの話をするのはなんだか憚られていたことをよく覚えています。本当は子供よりゲームが大好きなおっさんもいるのに。

今回のお話では、少年時代の僕が実際に抱えていた、大人に対する「しこり」を、架空のお爺さんによって取り除いてもらう構成にしました。

最後までありがとうございました!

生活費になります。食費。育ち盛りゆえ。。