わたしを渡ってゆくもの
大好きな言葉に「人が生きるということは、ただ気持ちのよい風が吹くようなものだ」というのがある。
誰の言葉か忘れてしまったし、細かな表現は違ったかもしれないけど、このような文だった。
わたしは、とてもしっくりきた。
ふっと吹いて、気持ちいいな、となって、そうして終わっていく。
宇宙規模でみるとほんとうに風のような命だと思う。
命を比喩するにはあまりにもあっけらかんとしているけど、言い得ている、と思った。
それほどまでにさりげないけれど、確かに存在して、なにか撫でる。
そんなふうに生きたいと思った。
そう思ってからは、
この言葉を頭の片隅に生きていたのだが、まったく同じ言葉を、ある日、唐突に聞くことになる。
テレビの中には、密着されているプロのイタリアンシェフがいた。
コース料理の理想的な前菜について語る。
「普通は料理にインパクトを残そうとする。でも違う。そうじゃなくて、食べ終わった後に“なにもなかった”ような、
-ただ“気持ちのよい風が吹いた”ような料理。」
びっくりして、
同じだ、と思った。
この人は、料理を風に例えた。
わたしたちが生きたり、何かがそこにあるということは、決して残らない、永久ではない、ほんの瞬きのようなひとときで、
だけど、確かに存在する。
わたしはこのことが、人生の大切なエッセンスのように思えた。
ピアノを習い始めてからいろいろなクラシックの曲を聴いてみている中で、わたしはすべての曲が大きくふたつに分かれているように感じた。
ひとつは、「訴えかけ」を感じるような曲だ。メロディやトーンに確かなメッセージ性のようなものがあり、その音楽自体が意思を持っているような曲だ。
そして、もうひとつは
「何も云わない」曲だ。
何かを残そうとしたり訴えかけたりするものがなく、ただ透明になって聴いているわたしを通っていくような、この身体を渡っていくような音楽だ。
不思議だけれど、なぜか心地よく、なんでもないのに、聴いたあと胸がすくような。
ピアノを習い始めたきっかけの「アラベスク」は、後者であった。
インパクトはなく、大きな盛り上がりもないが、なぜか強く心惹かれた。
(あくまで私がそう感じただけなので、実際はどのような意図の曲かは分かりませんが…)
あとに何も残さず、
“わたしを渡っていったもの”たち
とあるイタリアンコースの前菜の中に、
わたしの聴いた「アラベスク」の中に、
“気持ちのよい風”が吹いていて、
透明にひらひらはためいている。
これはなんだろう。
きっと大切ななにか。
わたしはそれをみつめていたい。
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