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『令月のピアニスト』9/13 見せかけだったあんぽんたん

「ですから言っているじゃないですか」
 横やりが、楽譜の物色という当初の目論見をみごとにはがしてしまった。代わりにぼくは粕賀と深夜の喫茶店にいる。ぼくはアイス・コーヒー、彼女は冷たい抹茶ラテで間を保っている。
 窓の外をカップルやら同僚との飲み会のグループやらが不定期に通り過ぎていった。話をしていることがガラス越しにわかる。だが、何を話しているのかはガラスの厚みが邪魔をしてわからない。高架の上を電車が行き来していた。電車は連続しているのに、粕賀の話は途切れ途切れで的を射ない。
「概念は人類を成長させるんです」
 焦点のずれた会話には慣れっこだったが、楽器店での疑問は解消しておきたかった。
「歴史が物語っているし、これからもつづきます。でも」
「でも」とぼくは慎重にコマを進めようと粕賀のことばをなぞって先をうながす。話の主導権を握らないことには解決への道筋が拓けない。だがその思いも肩透かし。
「私には時間がなかったんです。言うなれば身を立てるために」
「身をたてるために? つまりピアニストではだめだったってことを言いたい?」
 少しずつ誘導していくよりないか、と腹をくくるぼくがいる。
 時間はかかりそうだな、と不安に思わなかったわけではないが、終電まで時間はまだある。家に帰ったって、すぐに眠るわけではないのだ。外で夜更かししても、体制に影響はない。
 いや、ピアノを弾く時間が減るという実害は出る。
「そうです。ピアニストの具現化には、100年の歳月が必要だってことがわかったんです。もし私がピアニストになるのなら」
 いやはや、誘導の道筋を間違えてしまったか、よけいわからなくなってきた。
「人の想像力は国をまとめることができるようになったんですよ。でもそれには何百年、何千年もかかった。農業を集団で行おうとイメージしたのも人間でした。実現するのに何百年もかかっています。何年かかってもいいというなら話は別です。でも私には悠長に時間をかけることができませんでした」
 粕賀の真剣な顔を見ていたら、これ以上何を言っても無駄に思えてきた。
「そっか」
 区切りをつけて、さっさと帰ろう、そう思った刹那。
「なんてね」と粕賀が両肩を上げた。
「つなぎとめておきたかったんです、本当は」ととたんに寂しい顔をした。
 あの老人はお楽器店のオーナーで、お店にはよく通っていたこと、楽典は音楽を学術としてとらえるための参考書みたいなもので、大学時代の愛蔵書の1冊だったけれども音楽に区切りをつけるためにいったん決心して捨てたものの、ちょっとしたきっかけで--それはぼくに因るものらしい--読み返したくなって注文したこと、親が彼女をプロの演奏家にしたがっていたこと、自分の技術進捗曲線を分析してもらったところ、世界一流とされるピアニスト・レベルに到達するまでの時間が算出されたこと--それが100年の根拠らしい。ちなみにぼくには、その100年は彼女のやる気にはっぱをかけるものであって、物理的に必要とされる時間ではないことがわかる。人は100年も修行できるものではないのだから--、粕賀自身も人類が築きあげてきた想像力と発展の推移には時間がかかるということをユヴァル・ノア・ハラリを読んで納得していること、その論理は自分の技術進捗曲線にぴったりあてはめられると思っていること、そして粕賀自身もうすうすは気づいている(あとになって思えば、その100年は親が娘の反骨精神を引き出すための方便だったのではないかと今では訝っていると彼女の口から語られた)いう話を聞いたのは、その直後のことだった。
 話は理路整然としており、短時間で語り切るにはかなりの力量を要する話術であった。
 こいつ、ほんとうは何者なんだ?
 それに、感心したのは、そればかりではない。
「えっ、大学中退してプログラミングの学校に入ったんじゃなかったのか?」
「はい。いえ、いいえ。ええっと、大学は卒業しました。親に心配かけたくなかったから。3年になって、夜間のプログラミング専門学校に通いはじめたんです。二足の草鞋ってやつですね。これからの音楽にはパソコンが絶対に必要になるからって言ったら、母はあっさり納得してくれたの」
「でも本心は音楽に役立てるつもりはなく、プログラミングでやっていこうと?」
「そうです。さっきも言ったように、私には100年単位で技術を習得する寿命がないことがわかったから」
 冗談ともふざけているともとれる言い方を粕賀はしたけれども、彼女がぼくの疑問に初めて真摯に向き合おうとしていることは伝わってきた。
「ちょっと前、ランチで財布を出したとき、レシートが落ちたこと覚えてません? カレーのおいしい喫茶店に連れていってもらったときのこと」
 いつだったか『イマジン』のゴールをどうにか切ってきぶんのよかったあの日のことを粕賀は言っている。勢いで、メシでも食いに行くか、とピアノが雑貨販売棚になっている喫茶店に誘ったことを思い出した。
「あのときですよ。落ちたレシートに名曲堂楽器とあって、楽譜を買ったことがわかったの。そのときは何の楽譜だろうって想像しただけだったけど、田所さん、会社で指を動かすじゃないですか、ときどきこう」と言って、粕賀はピアノの鍵盤上を躍らせるように、しかも相当な手練れであることがわかる滑らかさで右手を動かしてみせた。「わかりやすかった。とっても。そのとき浮かべていた顔がとてもうれしそうに見えて」とそこまで話したところで、舞台が暗転したみたいな顔に切り替わった。
「私、小さいころからピアノを習わされていました。監視するように母がいつでも横で目を光らせていて。うまく弾けないとぴしゃりと手を叩かれることもしょっちゅう。指をケガする運動は禁止、指の動きを滑らかにするトレーニングから入って練習に突入して。その繰り返し。そんな毎日がいやでいやで機会があれば逃げ出したかった」
 粕賀はぼくの目を直視してきた。何か言わなきゃと思ったものの、湧き出た感情はたしかなのに、ことばをつかまえることができなかった。粕賀がつづけた。
「私、ピアノが嫌いでした。だから音楽から離れたかったのかもしれません。そして晴れて離れることができました。これでもう、ピアノと縁を切れるって。自分で稼ぐことができるようになって、家を出てひとりで住むようになって、ピアノのことなどすっかり忘れてしまおうと思っていました。2年も経てば、好きだった彼氏のこともすっかり忘れちゃうみたいに」
 うっかり、好きだった彼がいたの? と訊きそうになってしまった。尋ねてもどうにもなるものではないのに。
「そんなとき、田所さんがうれしそうに指を動かしているのを見て、ピアノが好きなんだなって思ったの。私が嫌いだったピアノ、どうして好きなのかなって。私にはなかったピアノへの想いが田所さんにはきっとあるんだろうなって。そう思ったら、訊いてみたくなっちゃって」
「ピアノを?」、場違いだった。
「いえ、訊きたいのはどうしてピアノが好きなのかってこと。だって雰囲気でわかるもん」
「なにが?」
「ピアノ、じょうずじゃないってこと」
「おいおい、そりゃあないだろう」

 いつの間にか粕賀のペースに呑まれていたことに気づいたが、まあいい。部下を知ることもぼくの仕事のひとつだ。
「ぼくは持ち上げられているのかい? それとも落とされているのかな?」
 苦笑いを返した。

 ふたりのレイヤーは上司と部下という関係で成立しているのだけれども、粕賀はそれを飛び越えようとしていた。ぼくがピアノを弾く弾かない、ピアノを楽しむ楽しまないというレイヤーは、粕賀とは無縁なものだ。だが彼女はぼくを悪戯猫の首根っこをつかまえたみたいに、悪事を白状させようとしている。後ろ指をさされることなどひとつもしていないというのに。なぜぼくがピアノに嬉々とするのか? そういえば、言われてみるまで考えたことなどなかった。粕賀に問われながらぼくは粕賀にとらわれていた。そしてぼくは彼女の問いに答えるだけの理由を自分の中に見つけだすことができなかった。粕賀に指摘されるまで、ピアノを楽しんでいることさえ意識していなかった。川が下流に流れる自然の摂理と共に、ぼくのピアノ時間が向かうべきところに流れていただけだ。ピアノの設置場所には恣意的意識が働いたけれども、それは寝起きの仕掛けであって、ぽっかり空いた心の隙間を埋めるためと考えたことはない。
 何を咎められているのかわからない猫は、にゃあと誤魔化すわけにはいかないので、思案する。
「そろそろ閉店のお時間です」
 ぼくの逡巡を遮るように、店員が伝票をテーブルに置いて去っていった。あと5分で10時になるところだった。ぼくは喫茶店のタイムリミットに救われたのかもしれない。代わりに、意に添えるかどうかは知らないが、粕賀は理解の楽しみをあとにとっておくことになった。つまり、「今度ね、田所さん」、次がある。

この道に“才”があるかどうかのバロメーターだと意を決し。ご判断いただければ幸いです。さて…。