le prince charmant

 アレクサンドルは久しぶりにこんな時間まで眠ったと、丸め込んで抱えた布団を退かし慣れた様子でシャルマンの部屋を出る。顔を洗いに向かった朝日のよく入る東向きのバスルームはすでに明るさのピークを超え、アレクサンドルのために用意されたであろう洗面化粧台の上のタオルが日の光に置き去りにされたかのようにぽつんと白い。
 鏡を覗き込んだ先の顔色は随分とよかった。いつも以上に酒を飲んだ記憶は本人にはないが、それでもシャルマンが隣で寝ていたかどうかは覚えていない。一人で眠ったのだとしたら部屋を占領したことを、巻き込んで丶丶丶丶丶眠ったのだとしたらそのことを謝ろうと寝間着のまま階段を下りダイニングを覗くが、シャルマンの姿はない。いつもならスリッパの音に反応してどこからか声がかかるのだが、とアレクサンドルがリビングに入っても、テーブルの上のティーセットだけが彼を迎えた。
「シャルマン?」
 出かけたのかとアレクサンドルが結論を出す前に吹いた風がレースカーテンを揺らし、テラスドアが広々と開け放たれていることに気付く。
 家屋からそれほど離れていない敷石に置かれたラタンのイージーチェアは背中を向けており、その背もたれでは小鳥たちが忙しなくさえずっていた。時折椅子の主を覗き込み前のめり飛び立っては、代るがわるなにかを主張する。
 スリッパのままデッキへ出たアレクサンドルがいくらか遠巻きに敷石を選んで椅子の横に回ると、そこに掛けているのはもちろんシャルマンで、膝の上や自分の肩でくつろぎ、あるいは跳ねる小鳥を楽しそうに眺めていた。昼前の晴天の庭で小鳥に囲まれ優雅に笑う姿はさながら童話の王子様のようで、おいおいまだ夢の中か、とアレクサンドルがかぶりを振る。一緒に漏れたうめき声に向けられた視線は柔らかく、アレクサンドルは余計に呻るしかなかった。
「やあ、おはよう。今日は遅かったね。食事にしようか」
 立ち上がったシャルマンからこぼれ落ちた小鳥たちが羽ばたき、まるでなんの断りもなく動いたシャルマンを非難するかのように軽快でやかましいさえずりを残して庭へ降りていく。
「……おはよう。なにか言いたいことがあったはずだけど、全部忘れちゃったよ」
「そう? なんで?」
「なんでだろうね」
 まだ寝ぼけているのかもとアレクサンドルがこぼすと、爽やかさに拍車をかける白いシャツについた羽をパッパと払いながらシャルマンが笑った。

「パンはいつもどおり少し焼こうか。あとサラダと、コーヒーと紅茶はどちらにする? 卵は?」
「今日はコーヒーかな。卵はおまかせで」
「他に食べたいものは?」
「あー、チーズある?」
「もちろん」
 キッチンで手を洗いながら、シャルマンは好きなのをどうぞ、とチーズドームの置かれたキッチンカウンターを視線で示す。もはや慣れたやり取りになりつつあることをむず痒く感じながらも、アレクサンドルも迷わぬ手付きでパンを好きに切り分けトースターに詰め込み、食器やスプレッド類、冷えた飲み物の準備をして示された先のチーズドームを覗き込んだ。多少悩みつつも目についたチーズをいくつかボードの上でカットし終えたときにはコーヒーを入れる準備が整い、シャルマンは他の食材の調理に移っている。今日はペーパードリップの気分らしい、とアレクサンドルが通いはじめてから増えた真新しい器具を流し見る。もうほとんどやることがなくなってしまったアレクサンドルは、手際のいいことで、と手近にある果物いくつかとチーズの乗った皿を持ってテーブルに向かった。
 アレクサンドルが食器のセッティングと一通りのつまみ食いを終えパンの回収にキッチンに戻ると、すでにキッチンにはコーヒーの香りが広がっていた。バスケットに移したパンを持ったままのアレクサンドルは、似合うものだとハンドドリップにいそしむシャルマンの横に立ちじっと観察する。そのうちに感心した表情で眺めながらも絶えずもぐもぐと口を動かす姿を笑われ、居づらくなり肩をすくめながらサラダボールをさらってテーブルに戻った。
「随分お腹が空いているようだね」
「育ち盛りなもので」
 シャルマンが運んできた取り分け皿を兼ねたディナープレートをアレクサンドルが二枚とも受け取る。スクランブルエッグとサラミが乗っているそれに、アレクサンドルはボールのサラダを盛り付けていく。シャルマンがカップにコーヒーを注ぎながら、思い出したように言った。
「そういえば、今日の午後は雨が降るそうだよ」
 サラダの取り分けに使ったフォークを咥え各々の前にプレートを置いたアレクサンドルが、なぜ伝聞、やはりどこかに出かけていたのだろうか、こんなに晴れているのに、起きたばかりなのに、とあれこれ疑問と不満を浮かべ不思議そうに片眉を持ち上げた。渡されたカップを受け取り媚びにも見える仕草で首を傾げる。
「食事が済んだら早めに帰りなさい。寄り道しないようにね」
 アレクサンドルが咥えたままのフォークを取り上げたシャルマンが、にっこりと笑顔で告げた。

「ねえ、こないだのってなんだったの?」
「こないだとは?」
 どこからか持ち込んだ雑誌に飽きたのか、アレクサンドルはそれをポイとテーブルに放るとそういえばとシャルマンに問いかけた。
「絶対聞こうと思ってたんだ」
 衣擦れの音が外の鳥のさえずりの間に響く。アレクサンドルはいくらか姿勢を整えて、説明を求めるためにその日その後の状況を伝えた。
官舎いえに着いたらちょうど雨が降り出した。バケツをひっくり返したみたいに。それまでは晴天だったのに」
「ああ、早く帰した日か」
 手元の本から目線だけをよこしていたシャルマンが、思い出すように視線を巡らせ本を閉じる。どこからなにを話すべきかを考えているのか、顎を持ち上げ小さくうなった。
「気象学者とか?」
「違うね」
「天気予報も晴れだったよ」
「そうだったのか」
「もしかして天気も変えられる?」
「さすがにそれはできないと思うな。試したことはないが」
「どうやったの?」
 アレクサンドルの声がシャルマンの答えを待って止まる。
 あの日と同じように部屋中の窓が開けられ、心地良い風と音がもたらされている。シャルマンはその空間の快適さに満足そうに目を細めて、なんでもないように言った。
「私はなにもしていないよ。彼らが教えてくれる」
 その発言のすぐあと、喧嘩でもしているのか、ひときわ大きく騒がしい鳥たちの鳴き声が部屋の中に届いた。テラスドアのすぐそばにいるようで、レースカーテンにはチラチラとその影が舞っている。
 アレクサンドルは答えを聞いて一瞬ぽかんと固まったが、すぐに物知り顔でシャルマンをにらみつけた。
「……ははぁん、さてはあなた、実は王子様なんだろう。やっぱり。俺には隠せないぞ」
「なんの話だ?」
 一人で勝手に納得するアレクサンドルに、シャルマンは困った顔で動きを止めた。実在するにしては出来すぎたひとだと思っていたんだと続くアレクサンドルのひとりごとに「悪魔なんだが」と答えるシャルマンの声は届かない。

タイトル日本語訳:魅力的な王子様

2022.10.04 初稿
2024.02.13 加筆修正