彼の名はレオ

 何度目かの訪問にいまだ慣れない心地で司祭館の玄関ドアを叩いたアレクサンドルは、腕時計を確認し、さすがに早すぎたかと独り言をこぼした。しばらく待ってもなんの反応もなく、念のため庭に周り家の中を覗き込んでみるもカーテンが開いているだけで誰もいない。起きてはいるようだが不在、と考えながら、何度か石畳や砂利道、玄関を行き来し、そのうちに諦めて玄関ポーチに座り込んだ。
 早朝以外は日差しの入るポーチの居心地は存外悪くなく、アレクサンドルを上機嫌にした。少ししてどこからか毛並みの良い猫が現れて、迷いなくアレクサンドルのそばに寄る。猫は一通りアレクサンドルの匂いを嗅ぐと、その脚に絡みついてそばでくつろぎ始めた。この時間のテリトリーにお邪魔してしまったのだろうと肩身の狭さを感じながらも、撫でるのを許された高揚感によりアレクサンドルはさらに機嫌を良くする。
 首輪はしていないながらも手入れの行き届いた触り心地に、飼い猫だろうと見当をつけた。たまに跳ねる尻尾がぱたんぱたんと音を立てる。
「おや、かわいい子猫がふたりも待っている」
 離れた場所から笑いを含んだ声が聞こえ顔を上げると、家のあるじが紙袋を下げてのんびりと歩いて帰ってきていた。隣の猫はその声に耳を向け、すかさず伸びをして前足を揃えて座った。
「お待たせしたようだね」
「こんにちは」
 アレクサンドルのあいさつに合わせてか、隣の猫もひと鳴きした。シャルマンはポーチに座る猫とアレクサンドルに笑いかけ、すぐに玄関扉を開ける。アレクサンドルがのろのろ立ち上がっている間に猫はさっさとシャルマンの足にまとわりつき、あいさつのように額を擦り付けていた。
「鍵はかけていないから、今度からは中で待つといい」
「いや、さすがにそれは。鍵もかけてください」
「ベルもノックも気付かずに眠っているかもしれないし」
 シャルマンが中で扉を押えているうちに猫は慣れた様子で室内に入っていく。アレクサンドルが後を追うと、廊下の少し先でシャルマンを待っているようだった。
「私の部屋は二回の奥から二番目の扉だ。先日君に貸したゲストルームの一つ手前」
「はあ……」
「寝ていたら起こしてくれ」
 この男に限ってそんな日は来ないだろうと冗談として受け流したアレクサンドルは、キッチンに進むシャルマンの後ろをついていく。猫はなにやらシャルマンに話しかけながら、器用にその足にするりするりと体を擦り付ける。これまで遭遇したことはないもののここの飼い猫なのかもしれないと、アレクサンドルはその微笑ましい仲の良さを眺める。色男には猫も似合うものだ、と感心すら抱いていた。
「メインディッシュはこれから作るから少し時間がかかるよ。ちょうど昼時にはできるが、また少し待たせてしまうね。客間で待つかい。お茶を淹れよう」
「いえ、おかまいなく。俺が早く着きすぎました。なにか手伝えるかなと思って」
「そうか。私ももういくらかは早く帰る予定だったんだ。魚と肉、君はどちらが好きだろうかと迷っていたら少し遅くなってしまった」
 アイランドカウンターに荷物を置き、シャルマンはひと段落のため息をついた。
「結局どっちにしたんですか」
「両方買った」
「それはそれは……」
 アレクサンドルとシャルマンの会話の最中にも猫はシャルマンに話しかけているようで、シャルマンも慣れた様子でそれぞれの声に答えている。しゃがみこんで一通り撫で、少し待ってくれと言いながら手を洗い食器棚から適当なスープ皿を取って水を溜めた。猫はシャルマンの足元でおとなしく待っている。
「で、君は結局どちらが好き?」
「どっちも好きかな」
「それはよかった」
 猫の水入れにするには随分高そうな皿を使っているのは気のせいだろうかと提供された水を舐める猫を横目に、アレクサンドルはシャルマンに促されカウンターのハイスツールに腰かけた。
「サバとリブロースだ。いい熟成肉が手に入った」
 カウンターを挟んだ目の前で買い物の成果物の整理を始めたシャルマンが、紙袋から大ぶりな肉屋の包み紙を取り出した。どれくらい食べるかわからなかったからたくさん買ってしまったと言いながら付け合わせにするだろう野菜や果物をカウンターに並べる。
「……、肉のほうが好きかも」
「猫は肉食だものね」
「それはそう、……ねこ?」
 水分補給を終えた猫は自分が呼ばれたものと思ったのか鳴き声を上げ、シャルマンの足元にじゃれついているようだった。
「苦手なものはあるかい、子猫ちゃん」
「……、俺に聞いてるんだよね?」
「他に誰がいる」
 一瞬の沈黙のうちに、カウンターの向こう、アレクサンドルの視界には映らない猫の姿が浮かぶ。
「その子?」
 甘えた高い鳴き声が響いた。存在を主張する、立派な声だ。
「この子にはあとで肉の切れ端でもあげるよ」
 おねだりされているのか、足元の猫と目を合わせたシャルマンが甘い声で「君はいい子だから少し待てるだろう?」と問いかけている。肯定と思しき返事の鳴き声が二、三続き、シャルマンのそばから離れた猫はキッチンをうろうろと散策し始めた。
「俺は切れ端じゃないほうがいいです。人間だから」
「ははっ、君は面白いね」
「そりゃどうも。ところで俺の名前覚えてます?」
「もちろんだよ、子猫ちゃん」
 想定通りに顔をゆがめたアレクサンドルを見て、シャルマンは笑った。いまだ一度も名前を呼ばれたことがないアレクサンドルの顔は随分苦かった。愉快そうなシャルマンの顔にこれ以上文句を言ったところで仕方ないとため息をつき、アレクサンドルは切り替えてカウンターに肘をつく。
「ちなみにその子の名前は?」
「さあ。君の友人じゃないのか?」
「初対面だ。あなたの飼い猫かと」
 誰の知り合いでもないことが判明した猫は、それでも悠々自適に歩き回り、今はアレクサンドルの足元でくつろいでいる。
「私の飼い猫は今は君だけだ。最近よく来るようになったから、てっきり君の紹介かと思っていたよ」
 ぐっと喉を詰まらせたアレクサンドルがカウンターの下で居心地悪そうに脚を動かすのを、猫が迷惑そうに見上げた。
「……俺、本当に人間なんだけどな」
「猫は君たち人間のよき友だろう」
「今は同じ肉を狙うライバルだ」
「生きていればそういうこともある。子猫同士仲良くしたまえ」
 アレクサンドルの足元から離れた猫は、またもシャルマンの足元に移動し媚を売っているようだった。おねだりの高い声が響く。
「君の食事はあと十五分で準備できる。いい子で待ってなさい」
 猫にも人間にも同じトーンで話しかけるシャルマンは、アレクサンドルに向かって君はもう少しかかる、と申し訳なさそうに眉を寄せた。
「子猫じゃない。俺もその子も十分大人だ。いくらでも待つさ」
「私からしたら子も大人もさして変わらないよ」
 シャルマンに振られた猫がアレクサンドルが座る隣のハイスツールに飛び乗り、行儀良く両手を揃えて座る。言われたとおりに待つつもりなのだろう。賢い猫だ、と感心したアレクサンドルは片肘をついてその毛並みを眺めた。
「お行儀はその子のほうがよさそうだ」
 シャルマンのその言葉にアレクサンドルが猫の顔を見ると、彼は目を合わせてミャ、と一言勝ち誇ったように鳴いた。その声にぴしりと背筋を伸ばしたアレクサンドルは、「俺はいい子だし、行儀もいいし、手伝いもできる」とシャルマンに向き直り主張する。
「昼食のお誘いをしたのは私だ。君たちはゲストなんだから手伝う必要はないよ。ふたりでおしゃべりでもしてなさい」
 袖まくりまで始めていたアレクサンドルの拍子抜けした顔を見て、シャルマンがまた笑った。
「君の仕事は私の料理を味わうことだ。私一人で食べきれる量ではないから期待しているよ」
「……それならおまかせを」
 意気消沈していたアレクサンドルは、楽しみを隠さない頬の色で唇を尖らせる。
 話している間にも着々と進む食事の支度に猫が手を伸ばすのを、アレクサンドルが抱えて静止する。そうして少しの悶着ののち、与えられた皿に乗った肉片をアレクサンドルの膝の上に乗ったまま食べる猫を見て、「もう立派な友人同士だね」とシャルマンが満足そうに言った。そうかも、と名もわからぬ図々しい友人を撫でながら、アレクサンドルもまんざらでもない気持ちで少し笑った。

2023.12.09 初稿
2024.01.28 加筆修正