甘いのが好き

 ノックの音にすぐに開いた玄関扉の中から、いつもどおりのゆるやかで色っぽい笑顔が現れる。いつもの嫌味ではない甘い匂いも一緒に香る。
「こんにちは、子猫ちゃん」
「……やあ」
 アレクサンドルが一言返事をしただけで、その色男、シャルマンの眉がいぶかしげにぐんと持ち上がった。
 そんな顔もかっこいいのか、と、ざりざりと砂を噛むような声のあるじは苦笑いでその表情に応えた。
「……ひどい声だ」
「やっぱり?」
「風邪かい? 体調は?」
「酒焼けだよ。飲んで騒ぎすぎて。二日酔いも抜けてるし、喉だけ」
 咳払いをしながら話すアレクサンドルに向けられるのは完全な哀れみの視線で、体はなんともないと伝えても過剰なほどの配慮の空気は薄れない。いつも以上に丁寧なエスコートに、客間に通されたアレクサンドルの顔から苦笑いが剥がれない。
「そうは言ったって、つらいだろうに。無理して来なくてもいいんだよ。『君が暇なときに』と言ったろう」
「暇は暇なんで……前回から少し日も空いたし……」
「ひと月も経ってないだろ」
「……お邪魔でした?」
 ソファに腰を落とす直前、中腰のままのアレクサンドルがわざとらしく肩をすくめた。ぴたりと動きを止めたシャルマンが、真剣な顔でアレクサンドルを見つめ返す。
「いいや? 会えて嬉しいよ」
 ありふれた言葉が薄い笑みによって色をまとう。嘘ではなさそうだが、表情や仕草が様になっているからこそそこに込められた真意を探ってしまうのだろうと、アレクサンドルは鼻根に集まる熱を逃がすように顔をしかめた。
「……ならいいでしょう」
「積極的だな、どうしたんだい。やはりどこか具合が?」
「どうもしない。とっても元気」
 いつもそれくらい積極的なほうがいいと笑うシャルマンを無視してどかりとソファに座ると、アレクサンドルはまた二、三度咳払いする。ざらつく喉の感覚に耐えかねてか、繰り返す咳に居たたまれなくなったのか、またすぐに立ち上がった。
「……だめだ、うるさいかも。帰ったほうがいいかな」
「喉が痛むのなら、今日はカモミールとはちみつだね。チョコレートを買っておいたんだが、やめておいたほうがいいな。喉の痛みはどれくらい?」
「んん、……、そんなに気にならないです……」
 帰る必要はないと伝えるお茶の提案と、「チョコレート」と聞いたアレクサンドルの顔は一瞬でぱっと明るくなったかと思うと、そこにさらに続くシャルマンの言葉にすぐに眉尻が下がる。
 しおしおと背中を丸めながらつい今しがたの自身の発言を撤回し、今度はそっと着席した。ご機嫌伺いのごとくシャルマンを上目で見つめる自分の姿にアレクサンドル本人は気が付いていない。玄関でしゃがれた声を聞いたときのようにシャルマンの眉が持ち上がった。
「……君、もしかしてだが、お茶とお菓子につられてここに来ている?」
「……、いえ……」
 ふわりと泳ぐ視線もすぐにまた戻ってきて、同じ表情でシャルマンを見やる。
 少しの沈黙は十二分にアレクサンドルの要望をその場に浮き上がらせる。
「……」
「食べたい?」
「……食べたい」
「喉の痛みがひどいときには刺激になるからおすすめしない」
「大丈夫です……」
「ちょっとだけだよ」
「ハイ……」
「なんだかふられた気分だ。飴もあげよう。こっちにおいで」
 静かなやり取りを覆すように軽快に笑ってそう言ったシャルマンがキッチンへ向かうのを、いくらか遅れてアレクサンドルが追う。
 お茶の準備の間にアレクサンドルに差し出された上品な箱には、宝石のようなチョコレートが美しく並んでいた。もらった飴を口の中で転がすアレクサンドルから、猛獣が喉を鳴らすのと似た唸り声が上がる。
「こんなにあるのに? 一個だけ? あぁ、いや、これ俺がすごい食いしん坊みたいだな。そうじゃなくて……」
「食べないという選択肢もあるよ」
「それはなしだ」
 シャルマンの笑い声にアレクサンドルは苦い顔で飴を噛んだ。細められた赤い目は、甘い。奥歯の間の飴を舌で回しながら、なんつう顔するんだ、と頭の中で悪態丶丶を吐く。
「回復したらまたおいで。すぐに腐るものでもない。食べずに取っておくよ」
「……、はい……」
 申し訳なさや恥ずかしさや情けなさや、それ以外も含めた自分由来の様々な不機嫌を全て口の中の飴に込めて噛み砕き飲み込んだアレクサンドルから、諦めに近いため息がこぼれる。たまに垣間見える、ただの友人に向けるにしては随分甘いシャルマンの視線への困惑は未だ飲み込めず、喉の痛みと一緒にそこにわだかまっていた。
「……あんまり甘やかさないでください」
「やっぱりいらない?」
「いや、チョコレートは食べる。そうじゃなくて」
甘いの丶丶丶は嫌いかい?」
 にまりと歪められた口元は、ちょうど沸いたケトルの湯に向いてしまう。
 ガシガシと髪を掻き上げ、アレクサンドルはケホンとまたひとつ咳をした。

2022.10.15 初稿
2024.02.02 加筆修正