「私のものになって」

 止まりかけた呼吸に喘ぐように体を捻り、ずるりと落ちた布団に巻き込まれて床に着地した衝撃でアレクサンドルは目覚めた。ラグと布団のお陰で体の痛みはほとんどないものの、夢見の悪さと衝撃によって早鐘を打つ心臓が不快で、酸素の薄い頭は重たい。そのまま床で寝返りを打ち、天井を見上げ呼吸を整える。全身が嫌な汗でじっとりと湿っていた。
 喉から迫り上がるような拍動を浅い呼吸で押し留め、まずは着替えようと腹や胸に張り付くTシャツをはたはたと持ち上げた。
 このまま一人で朝まで眠れるだろうかという逡巡は、床で目が覚めてからずっとある。
 すぐ隣の部屋で眠っているであろう家主のベッドの感触を探すように、アレクサンドルの手が下敷きになった布団の上を滑った。

 控えめなノック音のあと、呼びかけもなく扉の前でじっと佇む気配だけが残る。数刻前にゲストルームに一人で入っていったはずのアレクサンドルを思い浮かべ、今日はだめだったかとシャルマンはまばたいた。少し前にした床にものが落ちる鈍い音は彼だろうと当たりをつける。その音が響いてからこの部屋に来るまでに、それでもいくらか悩んだであろう程度の時間は経っていた。
 扉を開くと険しい顔で床をじっと見つめるアレクサンドルが立っていて、恐るおそる見上げた先のシャルマンが薄っすらと笑っていることに安堵したように眉尻を下げた。
「ごめん、もう寝てた?」
「いや、大丈夫だよ」
「……今日、やっぱり一緒に寝ていい?」
「もちろんだ。おいで」
 部屋の中に招かれたアレクサンドルがほとんど乱れていないベッドを見て、自分が起こしてしまったわけではなさそうだとさらに安心した様子でこわばった肩を落としたのを、シャルマンは目を細めて見つめる。
 ベッドに誘導するために触れたアレクサンドルの背中は嫌に冷たかった。

「部屋、暑かったかい」
 ベッドに乗り上げ自分のスペースの枕を整えるアレクサンドルにシャルマンが問う。
「いや、大丈夫だった。なんで?」
 シャルマンが自分の首元をトントンと指差し、おかしそうに笑った。
「着替えているし、髪も汗で濡れているよ」
「あっ、ごめん。拭いてくる」
「タオルならここにもある」
 サイドボードから取り出したタオルを受け取ったアレクサンドルが苦い顔でゴシゴシと首筋を擦る。湿った髪の毛が右に左に流れ、もとより荒れていた髪が余計に広がる。
「わがまま言ってごめん」
 そばのサイドボードにタオルを置いたアレクサンドルが、寝転がり布団を被ってため息をついた。同じように布団に入ったシャルマンが、同じようにため息混じりに聞く。
「なんのことだ?」
「いい大人が一緒に寝てほしいなんて」
 照れ隠しなのか、布団の中でずるずると執拗に寝返りを打ちながら、アレクサンドルは寝やすい体勢を整えていく。シャルマンはアレクサンドルが静かになるのを待ち、結果的に自分の方を向いて落ち着いたアレクサンドルが枕に頭を押し付けるのを見計らいその間に腕を滑り込ませた。
「私は君と眠る夜が好きだよ。君と迎える朝も好きだ。毎日そうだったらどれだけ幸せだろうか」
 腕枕にか、その言葉にか、アレクサンドルは一瞬顔を歪める。
「なにそれ。プロポーズみたいだ」
 アレクサンドルがくんと鼻を鳴らし、眉間と鼻の頭に寄ったしわを緩和させるためにぱちぱちとまばたきを繰り返す。シャルマンはその顔を楽しそうに眺め、真似るようにまばたきした。
「プロポーズしたら私と結婚してくれるのか?」
 なんでもない調子で言われた言葉にアレクサンドルは緩んできた眉根にまたしわを寄せるも、すでに落ち着き始めた呼吸に引き摺られてすぐにもとの表情に戻る。いつもの冗談だろう、と唇を尖らせた。
「結婚、結婚ね。シャルマンと」
 深いため息とともに急速に眠気が襲ってきたのか、アレクサンドルの呂律が若干あやしい色を帯びる。シャルマンが腰に回した手でトントンと体を揺すると、アレクサンドルはすぐに大人しく目を閉じた。
「それもいいかもしれない」
「……、おやすみ、私の子猫ちゃん」
 眠気に任せた言葉を本人が理解しているのかどうか。確かめようもないとシャルマンは笑って額に口付けた。
 腕の中のアレクサンドルの体はもうすでに温かくなっていた。

 目覚めたときにはすでに日も高く、アレクサンドルの隣には誰もいなかった。朝日が眠りを邪魔しないようにと控えめに開かれたカーテンは、シャルマンがすでに活動を開始している事実をアレクサンドルに知らせてくる。
 一緒に迎える朝がどうのと言っていたのはどうなったのやら。アレクサンドルがいつもの冗談か、夢だったかもしれないと寝転んだままあくびをこぼして顔を覆う髪の毛を掻き上げると、視界に白いなにかが映り、ギシギシとそれが引っかかった。
「なに……」
 左手薬指に引っかけられた白いそれは見覚えのある姿をしているが、寝起きのアレクサンドルの指にあるには幾分不自然だった。誰がそんなことをしたのかなど考えるまでもない。
 天井に手をかざしてみると、自らの重みで少し首を傾げたそれはどうやったのか指にピッタリとはまっており、昨晩のシャルマンの冗談がまだ続いていることを物語る。
「なんだよもう……」
 小さくうめいたアレクサンドルは羞恥で口元を歪ませながら二、三度左手を握っては開き、角度をつけて確認したあと、それを息を止め慎重に指からはずした。

「なんですか、これは」
 アレクサンドルの指から外されたかわいらしい指輪は、体温に負けたのか先程よりもさらにくたりと首を傾げていた。
「白詰草の花の指輪だ。かわいいだろ」
「そうじゃなくて。それはわかるよ」
「私と結婚してくれるんだろう? 好みではなかったかい?」
 キッチンのアイランドカウンターには庭から摘んできたであろうたくさんの草花が広げられ、にっこりと笑うシャルマンの手元ではリースか花冠か、今まさにボリュームのある花の輪ができあがろうとしていた。白詰草も編み込まれたそれは慎ましやかながら華やかで美しい。
「昨日、そんな話をした、気もする」
 君はすぐに寝てしまったからねと呆れ混じりでため息をついたシャルマンが、できあがった花輪をくるくると眺めながらアレクサンドルに寄ってくる。
「眠っている相手を巻き込むのは、おままごとにしてはたちが悪い」
「四葉にしなかっただけ褒めてくれ」
 白詰草の指輪を見つけてすぐに部屋から降りてきたであろうアレクサンドルの乱れ放題の髪をいくらか撫で付けると、シャルマンはできあがった花輪を乗せた。アレクサンドルの淡い色の髪に、緑と薄い色合いの花でできたそれはしっかりとなじんでいた。あちこち飛び跳ねた髪と寝間着姿だけがその華々しさを妙に浮かせる。
「意味がわからない」
「男なら花言葉の一つでも覚えておいた方がいい」
 位置を調整して満足げに笑い、不機嫌そうなアレクサンドルが摘んだままの白詰草の花の指輪を受け取ると恭しくその左手を掬い上げて薬指に通す。されるがままのアレクサンドルの手を眼前まで持ち上げ、わざとらしくその花に口付けた。
「ちなみに花冠にも別の花言葉があるんだ。『私を忘れないで』。人の想像力の、なんと美しいことか」
 さらに不機嫌を前面に出し顔をしかめたアレクサンドルを見て、シャルマンは声を上げて笑った。

「私と結婚しなくていいから、そのうち思い出したら四葉の花言葉を調べてみてくれ」
「多分、調べない。忘れちゃう」
「すてきな花言葉の冠を贈ったばかりなのにひどいな。では私と結婚する?」
「シャルマンの冗談はわかりにくい。あんまりかわかわないでくれ。心臓によくない」
「冗談じゃないからね」
「……、本気ってこと?」
「君にはもっと大ぶりの花のブーケが似合いそうだ。百合とか、ひまわりとか」
「本気なの?」
「さあ朝食にしようか。顔を洗っておいで、私のかわいい子猫ちゃん」
「……、これ、どうしたらいいのさ」
「私から君への贈り物だ。庭に置いておけばそのうち土に還るよ」
「え、贈り物なのでは……?」
「そうなったら、この土地の所有権でも主張してみてはどうだろうか」
「いきなり壮大な話ですこと」
「敷地に好きに新居を建てられるよ。ふたりの寝室は朝日の入る東側にしたいのだが、君はどう思う?」
「その話まだする?」
「ダーリンが冷たいな。これがマリッジブルーというやつか」
「まだするんだ。シャルマン、これは俺の本気の忠告だけど、俺以外にそういう冗談はやめたほうがいい」
「まさか。君以外とは結婚しないよ」
「は?」
「ん?」

2023.07.21 初稿
2024.02.12 加筆修正